優しい嘘~奪われた6月の花嫁~
KOCCO
―コッコちゃんは彼氏はいるの?
ラナン
―私は一年前にちょっとした喧嘩をして、見事にフラレたよ。まあ、当然といえば当然の結果だけど。
KOCCO
―そんなことないよ。コッコちゃんみたいな良い子の良さが判らない男なんて、最低。そんな男にはフラレて良かったかもよ。
ラナン
―ありがと、ラナンさん。元気出して。いつか必ずジューンブライドになれるよ。ラナンさんの良さを理解してくれる男がこの広い世界のどこかにいるから。
KOCCO
その日のメールはほどなく終わった。シャワーも浴びずベッドに転がり、紗理奈はすっかり泣き腫らした眼で天井を見つめた。
―いつか必ずジューンブライドになれるよ。ラナンさんの良さを理解してくれる男がこの広い世界のどこかにいるから。
コッコの最後のメールが脳裡をよぎる。何の根拠もないというのに、コッコがそう言っただけで、何か本当に実現しそうになるから不思議だ。実体のないメル友の言葉なんて、当てになるはずもないのに、そんなものにまで縋ってしまうほど今の自分の心は弱っているのだろうか。
いや、違うとすぐに思い直した。コッコは確かに実体のないメル友ではあるけれど、無責任な言葉をかけたわけではない。彼女は彼女なりにきっと紗理奈の幸せを願って口にしたのだろう。たとえコッコのことを何も知らなくても、紗理奈もまたコッコの幸せを願っているように。
不思議と、あれほど重たくなっていた心が少しだけ軽くなっていた。結局、コッコは一度として三日も返信しなかったことについては触れなかった。若いのに、気遣いのできる子なのだ。今の紗理奈の状態がそれどころではないと判断したのだろう。更に、少し考えれば、紗理奈がメールに無頓着だったのは恋人とのデートを控えていたからだとも判ったはずなのに、それについても非難めいた言葉は何もなかった。
コッコちゃん、ありがとう。あなたのことを三日も忘れていたなんて、私はどうかしてたんだ。
紗理奈は床に転がったままのラナンキュラスのブーケを拾った。しばらく複雑な想いで見つめてから、ブリキ製の花入れに水を張ってブーケを入れた。
花に罪はない。このまま水も上げずに枯れさせては可哀想だ。そんな風に考えられるまで心にゆとりができたのもコッコのお陰だ。
紗理奈はコッコの姿を思い描いてみようとしたけれど、それはどうしても上手くいかなかった。今度、写メくらいは送って貰おうかなと思ったりする。それとも、やはりプライバシー侵害だと嫌がられるだろうか。
どうしてもコッコの姿は思い描けないので、花屋の店番をしていたあんな感じの女の子ではないかと勝手に想像した。あの女の子の面影を浮かべ、紗理奈は礼を言った。
コッコちゃん、あなたのお陰で元気が出たよ。おやすみなさい。
瞼の中のコッコは微笑んだだけで?おやすみ?とは言わなかったが、紗理奈はそれで十分満足して存外に安らかな眠りついたのだった。
六月最後の日曜は紗理奈の誕生日だった。その日、紗理奈は出かける予定があるはずもなく、マンションにいた。もしかしたらと淡い期待を抱いたが、やはり柿沼からはメールも電話もなかった。
昼過ぎに最寄り駅のY駅の商店街まで出かけて小さなスーパーで買い物をした。歩いて十分の距離だから、いつものスウェット姿にクロックスと極めてラフな格好である。
ここはよく買い物をするので、どこに何が置いてあるかもよく知っている。カゴに食パンとか野菜、肉、牛乳、ヨーグルトと一週間分程度の食料品を放り込み、ついでに小さなショートケーキも入れた。二人分だが、仕方ない。一度に二個も食べたら太りそうだけれど、今夜くらいは自分を甘やかしても良いだろう。
また、ぶらぶらと歩いてマンションに戻った。長い初夏の陽が沈み、辺りが暗くなってきた頃、ショートケーキにこれは百均で買った数字型のキャンドルを立てる。
?2??8?のキャンドルを小さなケーキに立て、ライターで火を付ける。
「ハッピーバースデー、紗理奈」
一人で二十八歳の誕生日を祝うとは、ちょっと哀しすぎる気がしないでもないが、これは仕方ない。去年の誕生日は柿沼と隣町の高級ホテルの最上階ラウンジで食事して、プレゼントにはエルメスのスカーフを貰ったんだと思い出す。
微妙な雰囲気は既にあの頃からあったものの、それでもまだ、辛うじて恋人らしい雰囲気の二人だった。
「一度実家に帰ろうかな」
柿沼との問題から逃げるためというわけではないが、母の勧める見合い話について真剣に考えてみても良い頃合いかもという気になりつつある。それはコッコの
―いつかラナンさんだけを愛し理解してくれる男が現れるよ。
そのひと言があったからだ。我ながらやはり単純な女なのだろうと苦笑いが込み上げてくる。いつか柿沼がマンションに来たときにと買い置きしていた高級ワインを開け、一人で乾杯した。
ワインとケーキ二個を食べてから、使った食器を簡単に洗って乾燥機に入れ寝室に直行した。
パソコンを立ち上げると、コッコからメールが来ている。何気なくクリックした紗理奈は眼を見開いた。
「なに、これ―」
添付ファイルがあるらしい。こんなことは初めてなので開いてみると、何とピンクのラナンキュラスばかりを集めたブーケの写真が出てきた。こんなメールが付いている。
―本物が贈れたら良かったんだけど。出来合の画像を引っ張ってきたんじゃないよ。フラワーショップで買って、自分で写真を撮ったの。どう? ラナンキュラスって色々と種類があって迷ったよ。でも、私の思い描くラナンさんのイメージはピンクだったんで、ピンクで纏めてみたよ。
お誕生日、おめでとう☆☆
ラナンさんにとって、これから始まる新しい一年が更に素敵なものになりますように。もう一つ、願いが叶って良い男と出逢って、来年のジューンブライドになれますように。
KOCCO
珍しく名前の終わりには、笑顔の絵文字が入っていた。見る間に熱い滴が溢れ、頬を濡らした。笑顔の絵文字が滲んでぼやける。
「コッコちゃん、ありがとう、ありがとね」
誰も祝ってくれないと思っていた二十八歳のバースデー。思いがけず、祝ってくれる人がいた。しかも、わざわざ紗理奈の好きなラナンキュラスのブーケを買って写真を付けてまで。
紗理奈は泣きながらパソコンを打った。
―ありがとう、本当に嬉しかった。お花も凄く綺麗だね。これ、明日から携帯の待ち受けに使わせて貰う。また、泣いちゃったよ〜。今年いちばんのビッグサプライズだもんね。
ラナン
紗理奈もコッコを真似て、名前の後に泣き顔の絵文字を入れてみた。
―えーっ、また泣いちゃったの? 泣かないでよ、ラナンさんに笑顔になって貰いたくてサプライズを用意したのに。
KOCCO
困った顔の絵文字がついている。
―ごめんね、そうだよね。もう泣かない。本当に嬉しかった、どうもありがとう。
作品名:優しい嘘~奪われた6月の花嫁~ 作家名:東 めぐみ