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優しい嘘~奪われた6月の花嫁~

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               ラナン

 その日のメールの最後には笑顔の絵文字を付けた。その絵文字のとおり、紗理奈は幸せな気持ちで二十八歳になって初めての夜を過ごすことができた。それは顔さえ知らないメル友のお陰だった。
 紗理奈が幸せな眠りに入っていった同じ時刻、紗理奈の暮らす隣町では―。
 閑静な住宅街の一角に建つ昔ながらの平屋はかなり目立っていた。他の住宅がいかにも現代的な造りの新興住宅なので、昭和の面影を残すその住宅は余計に眼に付いた。
 その平屋の狭い四畳半で、一人の青年が古ぼけた置き机に向かっていた。これも年代ものの大きなデスクトップパソコンは彼自身が廃材置き場から拾ってきて、修理して使っている。
 だが、青年が先刻から熱心に眺めているのはパソコンではなく、携帯電話の方だ。青年の横顔はまだ少年らしさを少しとどめており、その整った造作はジャニーズ辺りでよく見かけるような彫りの深い美青年である。しかし、当人は至って自分がイケメンであるという自覚はないらしく、櫛の通っていない髪と着古した蒼色のカッターシャツとジーパンという身なりに構わないいでたちだ。
「香(かおる)、そろそろバイトの時間じゃない?」
 和室の襖が開いて、彼の母親と思しき女性が顔を覗かせた。彼とよく似た顔立ちをしている、なかなかの美人だ。歳は四十代半ばくらいだろうか。
「あ、うん。今、行く」
 香と呼ばれた青年は立ち上がり、携帯をジーンズのポケットにねじ込んだ。片隅にあったこれも色褪せたデニムのリュックを無造作に背負い部屋を出かけたところで、振り向いた。
 机の上には何の変哲もない花瓶があり、その中には眼の覚めるようなピンク色の花が一杯入っている。
 ラナンキュラス。とんな女(ひと)なんだろう。彼はここ一ヶ月というもの、毎日メールしている年上の女性のことを考えた。彼の父は早くに事故で亡くなった。母親は若い身空で仕事をしながら彼を育ててくれ、彼は高校を卒業して今の専門学校に通っている。
 将来は動物専門の美容師、トリマーを目指して、その学校に通っているのだ。母は今も働いているが、これ以上負担をかけたくなくて、彼はバイトを二つ掛け持ちしながら学費は自分で稼いでいた。
 そんな彼にとってバイト代の中から女性に贈る花代を捻出するのはなかなか至難の業であったけれど。彼女が歓んで笑顔になってくれるなら、どんな無理をしても構わなかった。
 彼女にこの花の写真とお祝いのメールを送ったら、物凄く歓んでくれたみたいだ。嬉しすぎて泣いたという返事には少し慌てた。どうやら、彼女は辛い恋をしているらしい。しかも、家庭持ちの男と付き合っていると聞いた。
 俺だったら、絶対に彼女を泣かせたりしない。いやと、彼は首を振る。
 だけど、俺に女性を愛することができるんだろうか? 自問自答しても判らなかった。何しろ、彼女は彼が生まれて二十年の生涯で初めて好きになった女性だから。たとえ、どんなブス(彼女には失礼だが)が現れたとしても、彼女を嫌いになったりはしないはずだった。彼は彼女の容姿を見たことはなく、その優しさや人柄をに惹かれたのだから。
 が、問題はそこじゃない。
 彼女が女である、ということの方が俺にとっては問題なんだ。俺が今まで好きになった数人はすべて女ではなく男だったのだから。もちろん、言い訳めいているが、身体の関係は持ったことはない。初めて付き合った恋人とは車の中でキスを交わし、互いに下腹部を触り合った―そこまでは経験はある。
 そのときは気持ちよくなって射精はした。だが、そこまでのことだ。実際に身体を重ねたことは一度もない。同性の男相手はむろん、女性ともだ。
 まあ、それはそれだ。彼はまた余計な物想いを追い払うように首を振った。とにかく、俺が彼女という人間を好きだということそのものが大切なんだ。彼女が人である限り、女であるとか男であるとかは関係ない。
 もしかしたら、男しか愛せなかったと信じ込んでいた自分が女性を愛せるかもしれない。新たな発見は彼に大きな勇気と歓びを与えてくれた。
「行ってきます。ラナンさん」
 彼は愛おしいものに触れるようにピンクの花をそっと人差し指で撫でた。しっとりとした光沢のある絹のような手触りだ。彼女の膚もこんな風に触れたら、しっとり極上の手触りがするのだろうか。
 でも、俺が女性に対して触れてみたいとか、そんな男として欲情するのも初めてだ―。
 彼はまた余計なことを考えそうになる自分に苦笑し、机の上の置き時計を見て慌てた。
「いけね、バイトの時間に間に合わねえや」
 叫ぶと後ろも振り向かず、部屋を出ていった。

   通り雨〜海辺での出来事〜

 コッコのお陰で思いがけず幸せな誕生日を過ごした紗理奈だったが、翌朝、その幸せな気分は見事なまでに無残に打ち砕かれた。
 柿沼からメールが入ったのである。
―至急、逢いたい。今日の午後、そっちに帰ったときに逢ってくれ。
                 英悟

 場所はいつもと同じ、紗理奈がいつも通勤に利用しているH駅裏のシティホテル、時間は今夜六時となっていた。紗理奈はいつもY駅から電車に乗り、途中でM駅で乗り換えてH駅で降りる。
 そのシティホテルは柿沼と関係を持つようになってから、よく利用してきた場所でもあった。そういえば、彼とは一泊二日だけだけれど、東北の温泉に旅行したこともあった。紅葉の鮮やかな季節で、二人は混浴風呂に浸かり、その後、旅館の一室で何度も獣のように交わった。柿沼は紗理奈を抱きながら、
―俺にはお前だけだ。
 うわ言のように言いながら、何度も精を放った。スキンなどをつけると愉しめないからと一度も彼自身が避妊をしたこともなく、紗理奈が自費で婦人科に行き処方して貰ったピルを飲んでいたのだ。
 どこまでも自分勝手で我が儘な男だ。
 今になって思えば、避妊をしていたのが良かったのかどうか。仮にピルを飲んでいなければ、紗理奈は妊娠したかもしれない。情に引かれた男が自分の子を身籠もった女を棄てるとは思えず、もしや柿沼が妻を棄て自分を選んだかもしれない―などと、この期に及んでも考えてしまうのは、やはり未練が過ぎるだろうか。
 けれど、秘書課長の言葉を借りれば、柿沼は責任感だけで妻を棄てないわけではない。愛ゆえに、紗理奈よりも妻を選ぼうとしているのだ。それでもまだ、紗理奈は愚かしいことに、柿沼に対して一縷の望みを抱いていた。いや、それは祈りに近い想いだったのかもしれない。
 自らがこの男のために費やした五年間はけして無駄にはならない、ならなかったと信じたいためだけに。
   
 柿沼は指定したとおり、ホテルの地下駐車場に愛車の白い車を停めて待っていた。紗理奈の姿を認めると、運転席のドアが開き、彼が降りてくる。視線を合わせてかすかに頷いた男に肩を抱かれ、紗理奈は地下から続くエレベーターに乗った。