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優しい嘘~奪われた6月の花嫁~

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―本当に良いんですね? ご主人とはよく話し合われたのですか?
 温厚そうな銀縁眼がねのよく似合う中年医師が訊ねた。
―私は結婚していないんです。
 そう言うと、医師はもう何も言わなかった。
 手術の日にちを決めて病院を出てきた時、私は涙が止まらなかった。三十歳になるまでには子どもは必ず一人は欲しいと願っていたのに、こんな形で妊娠して、すぐに赤ちゃんを失うことになるとは考えてもみなかった。
 数日後、私は用意してくるようにと言われたものを持って産婦人科に向かった。会社は有休を取っていた。誰か付き添ってくれる人はいるのかと事前に問われて、いないと応えたら、帰りはタクシーを使って帰るようにと指示があった。午前中に病院に行って予め子宮口をひろげる処置を受け、午後から手術になると説明を受けていた。
 その日、私は家を出るまで涙が止まらなかった。前日も食欲は全然なくて、殆ど何も食べていなかった。九時までに病院に入らなければならない。その時間に合わせて家を出たにも拘わらず、私はとうとう病院へは行けなかった。建物の数メートル前まで行ったのに、脚が竦んで動けなくなったのだ。
 私は病院に背を向けて走った。何か怖ろしいものに追いかけられているみたいに走った。かといって、状況が変わるものではなかった。マンションに帰ってみると、香君が来ていた。彼には合い鍵を渡していたから、たまには私が留守のときに来て待っていることもあった。
 誰もいないと思っていた私は滂沱の涙を流していた。とうとう病院へは行けなかった。私のお腹の赤ちゃんは来週からはもう十二週、四ヶ月に入る。私は比較的安全に中絶できる最後の機会を失ったのだった。四ヶ月以降の中絶は人工的に陣痛を起こして胎児を出すので、実質的には出産と同じになる。
 だけど、私には多分、もうお腹の子を殺すことはできないだろうと自分で判っていた。最初に病院で見せて貰ったエコーで、私は赤ちゃんを見ている。既に力強く心臓は鼓動を刻んでおり、小さいながらも人の形をしていた。
 あの子を殺すなんて、私にはできない。泣いている私を香君は哀しそうな眼で見ていた。彼は小さな棒状のものを私に示した。
―別にゴミ漁りをしたわけじゃないんだけど、リビングのゴミ箱をひっくり返しちゃってさ。これ、なに?
 彼が持っていたのは妊娠検査薬だった。陽性、つまり妊娠していることを示すブルーの線がくっきりと判定窓に出ていた。私はしまったと思った。自宅のトイレで使ってリビングのゴミ箱に棄てたのを彼に見つかってしまったみたいだ。
―それは。
 私は口ごもり、うつむいた。
―紗理奈、こっちを向いて。
 それでも、私は彼の方を見なかった。
―こっちを見るんだ!
 いつも滅多に声を荒げない彼が怒鳴り、私の顎を乱暴に手で持ち上げた。私は彼と眼を合わせるのが怖くて、まだ視線を背けていた。
―お前、妊娠してるのか?
 唐突に向けられた問いに、私はピクリを身を震わせた。
―それにこっちについても訊きたい。
 続けて差し出されたのは、クリニックの領収書。初診時に貰った支払いの明細書とご丁寧に中絶手術の説明書きまで。私は蒼白になって震えながら彼を見上げた。
―俺たちの子どもだぞ? お前だけの子どもじゃないんだ! 何で、こんな勝手なことをしたんだっ。
 彼の顔は怒りで紅潮し、眼には涙が宿っていた。
 私はその場にくずおれた。両手で顔を覆って泣いた。
―ごめんなさい、ごめんなさい。でも、香君はまだ学生なのよ、これから子どもが生まれて、どうするつもりなの?
 私の言葉に彼が息を呑んだ。
―じゃあ、紗理奈は俺のことを考えて―。
―今日が中絶するはずの日だったの。
――。
 彼がクッと呻き声を洩らした。私は続けた。
―でも、行けなかった。赤ちゃんとさよならするつもりでいたのに、できなかったの、私。
―もしかして、中絶しなかったのか?
 勢い込んだ彼に、私は頷いた。
―良かった、良かったよ。間に合ったんだな。
 彼は今度こそ声を出して泣いていた。
―籍を入れよう。子どもが生まれるまでにちゃんと式を挙げて、紗理奈の広島のご両親にも俺が挨拶に行くよ。
―でも、香君の夢はどうするの?
―人生に回り道は付きものだよ。学校はしばらく休学して、何か別の仕事を探す。紗理奈と子どものために稼がなくちゃな。出産したら、当分は紗理奈も仕事ができなるだろ?
 彼の意思は固かった。しかし、現実はそう甘いものではなかった。彼は言葉どおり、広島に挨拶に来てくれたが、事情を知った父は激怒し、彼を二度殴った挙げ句、家にも入れずに叩き出したのだ。
―親のすねかじりの分際で他人の娘に手を付けて身籠もらせるとは、男として恥を知れ。
 その傍で、母はすすり泣いていた。まさに、お粗末なホームドラマを地でいくような展開だった。
 当然、父は中絶を希望したけれど、既にお腹の子が五ヶ月にまで入っていることを知ると何も言わなくなった。
 私はY市に戻り今までどおり通勤を続けた。これからどうなろうと、出産すると決めたからには子どもが生まれてから後のことを考える必要があった。働ける間は働いてお金を貯めておこうと考えたのである。
 しかし、その私の決意をあざ笑うように、ある日、私は仕事場のトイレで倒れた。多少の出血もあり、近くの総合病院に緊急搬送された結果、ついたのは?切迫流産?の診断だった。
 最早、勤務は無理で絶対安静を言い渡されてしまい、私は広島に帰るしかなくなった。七年間勤務した会社を辞め、広島に戻ってすぐに実家近くの小さな産婦人科に入院することになった。そこで二十四時間の点滴を打ちながら療養を続け、二ヶ月の入院生活を経て妊娠七ヶ月後半になってやっと退院許可が下りた。
 そして、私は今、こうして結婚式に臨むことができた。お腹の子もつつがなく成長し、八ヶ月に入った。普通、妊娠していてもまだお腹の目立たない時期に挙式するものだ。でも、私の場合、色々な事情があって伸び伸びになってしまった。
 八ヶ月のお腹はとても大きくて、これではドレスを着ていても一目で妊婦だと判ってしまう。どうせなら子どもが生まれてから挙式しようと提案しても、これは彼がゆずらなかった。
―せめて、式だけはきちんと挙げてやりたいんだ、紗理奈のためにも子どものためにも。
 お腹の子どもが一時は危ないと言われたことで、私の父の態度も軟化した。父は香君との結婚を渋々ながら承諾し、彼が学校を卒業するまで、私と生まれた子どもの身柄を実家で預かると申し出てくれたのだ。
 そして彼が無事卒業し、念願のトリマーとして就職できるはずの一年後、私は赤ちゃんを連れて再び彼の許に行く予定だ。
 ただし、そのためには私たちは法律上は家族になっても、しばらくは離れて暮らさなければならない。それでも、たとえどんなに遠く離れていても、私と香君の心は繋がっていると私は胸を張って言える。
 私の体調のことを考え、式は広島の海の見える見晴らしの良い教会で行うことになった。昨夜は彼と父は差し向かいで酒を酌み交わし、遅くまで話し込んでいたようだ。