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優しい嘘~奪われた6月の花嫁~

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 何と柿沼はこれらの内輪の事情を訊ねられもしないのに、ぺらぺらと紗理奈に喋った。もし仮に自分が妻の立場であったなら、夫の不倫相手に夫婦の繊細なプライベートな問題をここまで暴露されたとしたら、物凄く嫌だ。
 なのに、柿沼は紗理奈相手に不妊治療のあれこれをむしろ面白おかしい出来事でも話すように話してみせた。男のそういうデリカシーのないところも、紗理奈を幻滅させた原因の一つなのは確かだ。
 柿沼も既にこの時、四十歳、妻も三十九歳になっていた。女性の側は四十過ぎると、妊娠できる確率もかなり下がってくると医者から言われたそうで、その頃、医師の指示に従い体外受精に切り替えたという話だ。
 特にこの一年ほどは、休日でも指定されれば病院に出向かねばならないとのことで、柿沼と紗理奈が逢う回数は以前の半分にも満たない。
 だったら、そんな男とはさっさと縁を切れば良いと誰もが言うだろう。紗理奈自身もそのとおりだと思う。だが、いざ別れを切りだそうとすると、言葉が重い鉛のように喉元につかえて出てこない。
 不倫をしながら、その相手の女に妻との不妊治療一切を節操なく喋るような男、そんな男に自分はまだ未練を抱いているのだ。その時、紗理奈は悟った。その気持ちを愛と呼べるのか、それとも、柿沼の妻への意味のない対抗意識にすぎないのか。紗理奈にはそれさえも判らない。
 ただ一つだけ判っているのは、彼との関係にけして未来も明るい希望もないということだけだ。事情を知る親友も会社の同期の子も皆口を揃えて言う。
―そんな男、さっさと別れちゃいなよ。後で泣きを見るのは紗理奈だよ。
 それでも、まだ踏ん切りがつかず、愚図愚図と柿沼との関係を続けている紗理奈を彼女たちは呆れたような眼で見ていた。そして、いつしか何も言わなくなった。
 紗理奈は溜息をつくと、肩から提げていたショルダーバッグを外した。そのままスリッパも履かず、ストッキングを脱ぎ散らかしたまま奥の寝室目指す。バッグはベッドに放り投げて、窓際に置いてある簡易ライティングデスクに座った。
 ノートパソコンの電源を入れると、しばらく眼を瞑った。今朝、夢を見たせいか、どうも寝不足で頭が重い。このまま食事も取らずに眠ってしまおうかと思うが、さりとて身体も心も石のように疲れ切ってはいても、すっと眠りに入れるほど精神的に安定していない。
 ここのところは眠れない夜も多く、お酒を飲んだり風邪薬を睡眠導入剤代わりに服用しているほどなのだ。今夜もどうせ眠れないだろう。紗理奈はふと思い立ち、キッチンに行った。小さな冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、蓋を開けて、そのまま飲む。ついでにキャビネットから薬瓶を出し、錠剤を数個口に放り込んで水で流し込んだ。
 それからまた寝室に戻った。その間にパソコンは起動が終わっている。紗理奈はすぐにネットに繋ぎ、メール画面を出した。新着メールは十数件あったものの、どれもが見る必要もないダイレクトメールばかりだ。がっかりして画面を閉じたようとした時、その意味もないメールの羅列の中に、ブログ運営局からの案内が混じっていた。そこをクリックすると、
―あなたのブログにコメントがありました。
 と、お知らせが表示されている。更に、そこからブログ記事に飛ぶと、紗理奈が登録しているブログサイトが出てきた。画面をスクロールさせていくと、下方にコメント欄がある。
―初コメです。色々と記事を見ていたら、ここに辿り着きました。ラナンさんは海が好きなんですか? 私も海は大好きです。これから海に行くのが愉しい季節になりますね。ラナンさんの記事を読みながら、あなたの夢の中に出てきた海を想像してみました。きっと、物凄く綺麗なんだろうなぁと思いました。私もそんな夢を見てみたいものです。
              KOCCO

 コメントの送信時間は午後一時三分となっている。そこで、紗理奈は改めて思い出した。今朝、起きがけに見た不思議な夢の話を出勤前のひとときに大急ぎで書いて送信したのだと。
 あの夢で見た海は素晴らしかった。まあ、テレビで放映されたあのグレートバリアリーフの浜辺そのものが絶景なのだから、それがそっくりそのまま夢に出てくれば当然だろう。普段は殆ど放置状態のブログだけれど、何故かあの夢の話は誰かに聞いて貰いたくて、早朝に目覚めて時間も余っていたため記事にしたのだけれど、まさか誰かが読んでコメントまでくれるとは考えてもいなかった。
 果たして返信しても相手がわざわざ見るかどうかは判らないが、とにかく返事だけはしておこうとパソコンを打ち始める。
―KOCCOさん、こんにちは。ラナンです。コメント、ありがとうございました。普段、滅多にコメントなんか来ないので、嬉しくて興奮してしまいました。コッコさんも海がお好きなんですね? 私も大好きです。私が夢に見たのは確か半年前にテレビで放映していた紀行番組で見た海と同じでした。

 更にその番組名まで書き込み、送信した。
そこで急激に眠気が襲い、紗理奈は机に突っ伏しそうになる。ここで眠ってはいけないとそのままベッドに向かい、服も着替えずに眠ってしまった。

 翌朝は風邪薬が効きすぎたのか、逆に寝坊してしまった。朝食を食べる時間もないままに顔だけ洗い、流石に昨日と同じ服ではまずいかとモスグリーンのパンツスーツから、落ち着いた控えめなピンクのタイトスカートとオフホワイトのブラウスに着替えた。
 パソコンをチェックする時間がなかったというよりは、もう昨夜のコメントのことなんか忘れていたというのが真実だった。
 その日は残業もなく定時に帰宅でき、紗理奈はいつもよりは早めにマンションにいた。戻ってくると、固定電話に留守電が二件入っていた。一件めは広島の母からで、二件めは当然というべきか、柿沼からだった。幸か不幸か、二人の関係が五年目に入った今年の春早々、柿沼は子会社に出向になった。予定では二年だというが、噂では紗理奈との関係が社長の耳に届いたため、怒りを買っての左遷だと囁かれていた。
 昔気質の社長は苦労して一代で会社を立ち上げた先代から引き継いだ二代目社長だ。昭和生まれの謹厳な人柄で知られ、何より不道徳を嫌うといわれていた。むろん、五年も続いた関係だし、柿沼と紗理奈の関係は会社の大方のところで知られていたけれど、流石に社長の元にまでは届いていなかったのだ。
 このことで柿沼だけが左遷され、辛うじて紗理奈には累が及ばなかったのは奇跡的と言って良かった。
 ご丁寧に誰かが知らせた可能性も高い。柿沼と顔を合わせることがなくなったのは二人の間に冷却期間を置くという意味では効果的かもしれない。だが、それは互いにまだ情が残っていればの話で、もし彼が紗理奈から逃げようと思っているのであれば、男には格好の逃げるチャンスになることだろう。