優しい嘘~奪われた6月の花嫁~
プロローグ(序章)〜夢の中で出逢った人〜
今朝、夢を見た。私は一面の深くて白い霧の中をさすらっている。ミルク色の靄はすっぽりと私の身体ごと包み込み、一寸先さえ判別がつかない。
ここは一体、どこなのだろう。焦りが徐々に募ってくるが、白い霧の海はいっかな晴れるどころか、ますます深くなってゆくようだ。
と、私は弾かれたように顔を上げた。誰かが霧の深い海の彼方から呼んでいる。まるで耳を傾けていると、胸を引き絞られるようなに切なげな声で私の名前を呼んでいる人。
―あなたは誰?
狂おしいほど切なげな声に、哀しくなる。私は依然として視界を遮る乳白色の靄の向こうを見定めようと懸命に眼を凝らす。
唐突に霧が晴れ、視界がクリアーになった。それはまるで湯気で曇っていたガラスが一挙に曇りを拭われたかのような鮮明さで、私の前に立ち現れた。
向こうにはサファイアのような煌めく海がひろがっている。どこまでも続く一面の海の真ん中ほどに、ひとすじの白い白砂の道が走っている。この光景には見憶えがあった。確か半年ほど前、テレビの紀行番組で紹介された景色ではなかったか。
?自然の織りなす奇蹟! 至福のクリスタルブルー?と銘打った番組は今、人気沸騰中の若手女性タレントが現地に赴いて直接取材する形式のドキュメンタリーだった。紹介されたのはオーストラリアのホワイトヘブンビーチだ。
―グレートバリアリーフに浮かぶ無人島の純白なビーチは、まさに、この世の天国です。水上飛行機で見る空旅も最高で、のんびりと進むクルーズツアーも愉しめます。見て下さい、まさに地球というキャンバスに描かれた素晴らしいマーブルアートです!
まだ二十歳そこそこの、いかにもアイドル顔をしたタレントは興奮気味にまくしたてていた。蒼い海と真白な砂浜が言葉どおり、マーブル模様を描いている景色がどこまでも続いているのだ。普通の海岸の眺めとは少し赴きが違う。何より陽光に煌めく蒼い輝きは女性を誘惑して止まない宝石のようではないか。
一度眼にしたら、忘れられない光景だった。現に、あの番組を見て半年も後に突然、夢に見るほどに、私の心にあの奇蹟の美しさは灼きついていたのだから。
夢にまで見た最も印象に残る景色ではカメラのアングルの捉え方で蒼い海の中にひとすじの道が通っているように見えたけれど、現実には蒼と白が入り混じった魅惑的な海岸がずっと続いている。
海と白砂の描くコントラストに眼を奪われている中に、いつしか呼び声は聞こえなくなっていた。
慌てて周囲を窺っても、最早、物音一つない静謐な世界がひろがるばかりである。打ち寄せる波の音すら聞こえてこないのが、これはリアルでありながらもやはり夢の出来事なのだと教えてくれる。
そこで目覚めが唐突に訪れた。
実体のない【友人】
「ただ今」
紗理奈は誰もいない空間に向かって声をかけ、玄関のドアを開けた。玄関には暗くなれば自動的に灯りがつくようになっている。そこだけは部分的に明るく、続く先は真っ暗な闇に覆われていた。
当然ながら、返事が返ってくるはずもない。紗理奈は都市の郊外にある高層マンションに一人暮らしなのだから。ここで暮らし始めて、もう七年になる。短大を卒業してすぐに親の援助を受けて、二十歳の女の子が暮らすには少し贅沢すぎるこのマンションを手に入れた。
ここの住人は賃貸もいれば買い取りもいるが、紗理奈はいずれは出ていくつもりで賃貸で借りた。月々の家賃も馬鹿にはならず、一人暮らしを始めて二年目からは親の援助も受けずに暮らしているので、余計に痛い出費だ。
さりとて、どこかに引っ越そうという気にもならず、ずるずるとここに居続けている中に、いつしか月日だけが虚しく流れていった。特に愛着があるわけではないが、ただ引っ越し先を探したり、その手配諸々が面倒、つまり惰性で続けているだけなのである。
その関係は柿沼との五年間にも似ているかもしれない。柿沼英悟は紗理奈が勤務する家電メーカーの営業部長だ。紗理奈の所属は秘書課だが、仕事内容は柿沼付きの秘書ということになっている。
上司と秘書の不倫。あまりにも定番のつまらないメロドラマみたいで、笑おうにも笑えない。けれど、その笑えないありきたりな関係に、紗理奈は柿沼となってしまった。
紗理奈は元々は本社ビルの受付係として採用された。百六十三?、四十五キロ、スリーサイズも理想的で、容姿は短大のミス・キャンパスのコンテストで準グランプリに選ばれる程度、つまり中身よりは外見だけで受付嬢に選ばれたということだろう。
二年間受付を務めた後、秘書課に異動となり、それが五年にも及ぶ不倫の幕開けとなるとはその時、紗理奈は予想だにしていなかった。更に、そのお粗末な定番ドラマのような関係も、最初は新鮮で柿沼も紗理奈も世の多くの不倫カップルのように?純愛?だと信じ切っていた。
柿沼は紗理奈よりは十五歳年上の当時、三十七歳の男盛りで、会社でも意欲的に仕事をする男として知られていた。要するに、できる男というイメージの強い人で、既婚でありながら、女子社員の中で熱い視線を向ける者は多かった。ルックスもそこそこだったし、何より同期の中では出世も早い将来有望なエリートだった。
柿沼には社内恋愛で結婚した妻がいて、子どもはいなかった。何でも出来ちゃった結婚だったそうだが、妻が入籍後半年で死産してしまったという。妻の方は結婚を機に退職していた。
死産の後、夫婦の間には子どもが授からず、結婚八年目からは妻の強い要望で不妊治療を始めていた。柿沼が紗理奈と知り合った時、不妊治療を始めて三年目になっていた。高い治療費を支払い続けても効果はなく、夫婦の間の営みも妊娠のための義務的な任務のようになってしまい、柿沼は苛立ちを募らせていた時期でもあったのだ。
そんな頃、紗理奈と柿沼は出逢い、恋に落ちた。口説いてきたのは柿沼の方だったけれど、紗理奈もまた男らしく見えた彼にひそかに憧れていたから、すんなりと受け容れた。そうして男女の関係になり、週一の割合で会社帰りにはデートしてホテルで身体を重ねて。これも、本当にどこにでもあるような関係が続いた。
最初は真剣だと信じ込んでいた柿沼との関係が実は単なる惰性で続いているだけだと悟ったのは、いつのことだったのか。最初の二年くらいは良かった。少しずつ新鮮さが薄れていく中に互いに熱が冷めていって、決定的になったのは柿沼の妻が妊娠したときだったろう。
とはいえ、その妊娠は?科学的流産?、つまり胎児の姿がエコーで確認もできない超初期の段階で妊娠が継続できないという残酷な結果に終わった。紗理奈と柿沼の関係が三年目に突入した矢先の出来事だった。
柿沼の妻は二十五歳で一つ上の柿沼と結婚している。久々の妊娠は十四年ぶりだったが、元々妊娠できない身体ではないのだ。その頃から、柿沼の態度が微妙に変化した。不妊治療に通っている病院でも、希望のある今の中に治療を人工授精から体外受精に進めましょうと言われていると聞いた。
今朝、夢を見た。私は一面の深くて白い霧の中をさすらっている。ミルク色の靄はすっぽりと私の身体ごと包み込み、一寸先さえ判別がつかない。
ここは一体、どこなのだろう。焦りが徐々に募ってくるが、白い霧の海はいっかな晴れるどころか、ますます深くなってゆくようだ。
と、私は弾かれたように顔を上げた。誰かが霧の深い海の彼方から呼んでいる。まるで耳を傾けていると、胸を引き絞られるようなに切なげな声で私の名前を呼んでいる人。
―あなたは誰?
狂おしいほど切なげな声に、哀しくなる。私は依然として視界を遮る乳白色の靄の向こうを見定めようと懸命に眼を凝らす。
唐突に霧が晴れ、視界がクリアーになった。それはまるで湯気で曇っていたガラスが一挙に曇りを拭われたかのような鮮明さで、私の前に立ち現れた。
向こうにはサファイアのような煌めく海がひろがっている。どこまでも続く一面の海の真ん中ほどに、ひとすじの白い白砂の道が走っている。この光景には見憶えがあった。確か半年ほど前、テレビの紀行番組で紹介された景色ではなかったか。
?自然の織りなす奇蹟! 至福のクリスタルブルー?と銘打った番組は今、人気沸騰中の若手女性タレントが現地に赴いて直接取材する形式のドキュメンタリーだった。紹介されたのはオーストラリアのホワイトヘブンビーチだ。
―グレートバリアリーフに浮かぶ無人島の純白なビーチは、まさに、この世の天国です。水上飛行機で見る空旅も最高で、のんびりと進むクルーズツアーも愉しめます。見て下さい、まさに地球というキャンバスに描かれた素晴らしいマーブルアートです!
まだ二十歳そこそこの、いかにもアイドル顔をしたタレントは興奮気味にまくしたてていた。蒼い海と真白な砂浜が言葉どおり、マーブル模様を描いている景色がどこまでも続いているのだ。普通の海岸の眺めとは少し赴きが違う。何より陽光に煌めく蒼い輝きは女性を誘惑して止まない宝石のようではないか。
一度眼にしたら、忘れられない光景だった。現に、あの番組を見て半年も後に突然、夢に見るほどに、私の心にあの奇蹟の美しさは灼きついていたのだから。
夢にまで見た最も印象に残る景色ではカメラのアングルの捉え方で蒼い海の中にひとすじの道が通っているように見えたけれど、現実には蒼と白が入り混じった魅惑的な海岸がずっと続いている。
海と白砂の描くコントラストに眼を奪われている中に、いつしか呼び声は聞こえなくなっていた。
慌てて周囲を窺っても、最早、物音一つない静謐な世界がひろがるばかりである。打ち寄せる波の音すら聞こえてこないのが、これはリアルでありながらもやはり夢の出来事なのだと教えてくれる。
そこで目覚めが唐突に訪れた。
実体のない【友人】
「ただ今」
紗理奈は誰もいない空間に向かって声をかけ、玄関のドアを開けた。玄関には暗くなれば自動的に灯りがつくようになっている。そこだけは部分的に明るく、続く先は真っ暗な闇に覆われていた。
当然ながら、返事が返ってくるはずもない。紗理奈は都市の郊外にある高層マンションに一人暮らしなのだから。ここで暮らし始めて、もう七年になる。短大を卒業してすぐに親の援助を受けて、二十歳の女の子が暮らすには少し贅沢すぎるこのマンションを手に入れた。
ここの住人は賃貸もいれば買い取りもいるが、紗理奈はいずれは出ていくつもりで賃貸で借りた。月々の家賃も馬鹿にはならず、一人暮らしを始めて二年目からは親の援助も受けずに暮らしているので、余計に痛い出費だ。
さりとて、どこかに引っ越そうという気にもならず、ずるずるとここに居続けている中に、いつしか月日だけが虚しく流れていった。特に愛着があるわけではないが、ただ引っ越し先を探したり、その手配諸々が面倒、つまり惰性で続けているだけなのである。
その関係は柿沼との五年間にも似ているかもしれない。柿沼英悟は紗理奈が勤務する家電メーカーの営業部長だ。紗理奈の所属は秘書課だが、仕事内容は柿沼付きの秘書ということになっている。
上司と秘書の不倫。あまりにも定番のつまらないメロドラマみたいで、笑おうにも笑えない。けれど、その笑えないありきたりな関係に、紗理奈は柿沼となってしまった。
紗理奈は元々は本社ビルの受付係として採用された。百六十三?、四十五キロ、スリーサイズも理想的で、容姿は短大のミス・キャンパスのコンテストで準グランプリに選ばれる程度、つまり中身よりは外見だけで受付嬢に選ばれたということだろう。
二年間受付を務めた後、秘書課に異動となり、それが五年にも及ぶ不倫の幕開けとなるとはその時、紗理奈は予想だにしていなかった。更に、そのお粗末な定番ドラマのような関係も、最初は新鮮で柿沼も紗理奈も世の多くの不倫カップルのように?純愛?だと信じ切っていた。
柿沼は紗理奈よりは十五歳年上の当時、三十七歳の男盛りで、会社でも意欲的に仕事をする男として知られていた。要するに、できる男というイメージの強い人で、既婚でありながら、女子社員の中で熱い視線を向ける者は多かった。ルックスもそこそこだったし、何より同期の中では出世も早い将来有望なエリートだった。
柿沼には社内恋愛で結婚した妻がいて、子どもはいなかった。何でも出来ちゃった結婚だったそうだが、妻が入籍後半年で死産してしまったという。妻の方は結婚を機に退職していた。
死産の後、夫婦の間には子どもが授からず、結婚八年目からは妻の強い要望で不妊治療を始めていた。柿沼が紗理奈と知り合った時、不妊治療を始めて三年目になっていた。高い治療費を支払い続けても効果はなく、夫婦の間の営みも妊娠のための義務的な任務のようになってしまい、柿沼は苛立ちを募らせていた時期でもあったのだ。
そんな頃、紗理奈と柿沼は出逢い、恋に落ちた。口説いてきたのは柿沼の方だったけれど、紗理奈もまた男らしく見えた彼にひそかに憧れていたから、すんなりと受け容れた。そうして男女の関係になり、週一の割合で会社帰りにはデートしてホテルで身体を重ねて。これも、本当にどこにでもあるような関係が続いた。
最初は真剣だと信じ込んでいた柿沼との関係が実は単なる惰性で続いているだけだと悟ったのは、いつのことだったのか。最初の二年くらいは良かった。少しずつ新鮮さが薄れていく中に互いに熱が冷めていって、決定的になったのは柿沼の妻が妊娠したときだったろう。
とはいえ、その妊娠は?科学的流産?、つまり胎児の姿がエコーで確認もできない超初期の段階で妊娠が継続できないという残酷な結果に終わった。紗理奈と柿沼の関係が三年目に突入した矢先の出来事だった。
柿沼の妻は二十五歳で一つ上の柿沼と結婚している。久々の妊娠は十四年ぶりだったが、元々妊娠できない身体ではないのだ。その頃から、柿沼の態度が微妙に変化した。不妊治療に通っている病院でも、希望のある今の中に治療を人工授精から体外受精に進めましょうと言われていると聞いた。
作品名:優しい嘘~奪われた6月の花嫁~ 作家名:東 めぐみ