優しい嘘~奪われた6月の花嫁~
そのときだった。波の音に混じって、かすかに低く音楽が聞こえた。
紗理奈はつと振り向いた。音楽は香が手にしたガラケーから聞こえている。じいっと聞き入っている中に、彼女は眼を見開いた。
「―六月の花嫁に憧れ、ね」
それは紗理奈がまだ香を女の子?コッコ?だと信じていた頃、メールで大好きな歌だと告げたあの歌だった。その時、紗理奈は彼にジューンブライド願望があるのだとも打ち明けた。
だが、少し違和感があった。
「これって、中澤裕子が歌ってたんじゃないかしら?」
と、香がよく聞こえるようにガラケーを紗理奈の耳許に近づけた。もう少し聴いてみる。確かに歌詞も曲調も紗理奈の大好きな歌だが、歌っているのは中澤裕子ではなかった。
彼の整った面に、悪戯っぽい微笑が浮かんでいる。
「知らなかった? ジューンブライドに憧れは元々、この人が作詞作曲して中澤裕子が歌ったんだよ」
更に聴いてみる。澄んだ可愛らしい声で花嫁になった歓びを歌い上げる中澤裕子とはまた雰囲気が違う。男性ボーカリストのしっとりとした深い声音は心の奥底にまで響いてくるようだ。
「これはこれで素敵ね。女性が歌うのとは全然違うもの」
香がニッと笑った。
「だろ? 着うたフルでダウンロードしたんだよ」
興味があったので、訊いてみた。
「こちらは何という人?」
「永井龍雲」
「凄い、何だか戦国武将のような堂々とした名前ね」
「戦国武将ね」
香が面白そうに笑った。それから永井龍雲が作って歌ったという別の歌も何曲か聴かせて貰った。どれも聴く人の心の琴線に届いて震わせるような良い歌ばかりだった。
紗理奈の耳奥でお気に入りの歌がリフレインする。
―六月の花嫁にあこがれ 子どもの頃から
白亜の教会 紅いバージンロード
淋しい想いしてきて父と母の離婚(わかれ)
二人の分まで幸せになるの
だけど、私にはいつまで経っても歌に出てくるような男は現れない。幼い頃から夢見ていたような幸せな花嫁にはなれない。
「いっそのこと広島に帰って見合いして、本当に結婚しようかな。今からなら、来年のジューンブライドには間に合うわ」
どこか投げやりな気持ちで呟くと、すぐ側で大きな声で聞こえた。
「止めろよ」
物静かな雰囲気の彼には似合わない剣幕に、紗理奈は少し身を引いた。
「何か自棄になって言ってるみたいだ。そんなのはラナンさんに似合わない。相手の男にも失礼だよ」
彼がハッとした表情になった。
「ごめん、何でムキになるんだろう、俺」
彼自身も自分の言動が理解不能のようであった。
紗理奈は淋しげに微笑んだ。
「そうね。確かに、そんな中途半端な気持ちで結婚したら、相手の人に失礼だし申し訳ないわね」
そんな紗理奈を見ていた香が少し逡巡してから口を開いた。迷った末、ひと息に言ったという感じだ。
「俺じゃ駄目かな」
え、と、紗理奈は眼をまたたかせた。彼の言葉の意味が判らない。
彼は自分を落ち着かせるように深呼吸した。まるで短距離走の選手が今にもスタートのホイッスルを待っているかのように見える。
「俺ならラナンさんを幸せにする。他の女になんか眼を向けない。俺と来年の夏、結婚式を上げて六月の花嫁になってくれない?」
それは紗理奈にとっては衝撃というより、意外でしかない科白だった。彼は二十歳、紗理奈は二十八歳、八歳も年下の男の子を恋愛対象どころか結婚相手として考えたことはなかったからだ。
もちろん彼のことは好きだ。話していても愉しいし、彼の誠実で優しく誰に対しても心配りができる、今時の若い子には珍しい人柄も好ましい。でも、その?好き?というのは例えば弟に対するような親愛の情であり、その男の面影を思い描いただけで胸が切なく震えるような恋情とはあまりにもかけ離れていた。
少なくともまだこの時、紗理奈は香をそういう意味で?男?として認識はしていなかった―はずだった。
紗理奈は結局、香の衝撃的なプロポーズには何の返答もしなかった。沈黙は時に何より雄弁に物を言うことがある。香の端正な顔には、あからさまな落胆が滲んでいた。
彼が何か言おうと口を開きかけたまさにその時、それまで晴れ渡っていた空が曇っていることに気付いた。
「何か雲行きが怪しいみたいだ」
紗理奈は彼が言いかけた言葉の続きを聞いてみたかったような、聞かなくて良かったような複雑な気持ちだった。だが、やはり聞かなくて正解だったのだろう。
「急いで駅に戻ろう。降り出してからじゃ大変だ」
促され、紗理奈は彼の後について早足で歩いた。だが、どうもタイミングが少し遅すぎたようだ。ポツリと冷たい雫が頬に触れたかと思うと、忽ちにして雨が降ってきた。
「畜生、間に合わなかった」
と、彼にはいささか似合わない罵りの言葉をつき、彼は溜息を吐いた。
「どうしようか、今から全速力で走っても、駅までは遠すぎる。ずぶ濡れだよ」
更に躊躇いがちに伸び上がるようにして前方を指さした。
「あそこにホテルがあるんだけどね。雨宿りするなら、あのホテルしかない。ラナンさんさえ良ければだけど」
しまいは消え入るような声になった。紗理奈は眼を眇めるようにして彼の指した前方向を見やった。雨に煙る風景の中に、蒼い小さな建物がポツンと見えた。砂浜から道路へと上がったすぐ、つまり駅方向から来たら道を渡りきった場所に建っているらしい。来たときは別の方を通って浜辺に降りたので、こんな建物があることさえ知らなかった。
紗理奈はかすかに頷いた。どうやら、迷っている時間はなさそうである。雨脚はどんどん強くなる一方で、既に紗理奈も彼もかなり濡れていた。
紗理奈が頷くと、香は彼女の手を取って走り出した。
「急ごう、これ以上濡れない中に。そうでなくともラナンさんは昨夜も雨に打たれて熱を出したんだ。身体に良くない」
彼の気遣いが嬉しかった。雨は冷たかったが、彼にしっかりと握りしめられた手の温もりが冷たくなってゆく身体を幾ばくかでも温めてくれるようだ。まったく、よく降る雨だとお天道さまを恨めしくも思いたいが、梅雨の時季なのだから、これは致し方ないだろうと諦めるしかない。
どうも紗理奈たちは通り雨に遇ったようだ。
直に建物が見えてきた。何故、雨宿りとはいえ、紗理奈を連れてくるのに躊躇ったか?
その理由はすぐに判った。あのときの彼の戸惑いから、おおよその見当をつけていたけれど、実際にラブホテルを前にすると脚を踏み入れるのには抵抗があった。仮に紗理奈が香を恋愛対象として見てはいないとしても、やはり二十代の女と男が閉じこもって過ごすにはふさわしくない場所だ。
が、今更、彼を責めてみたところで意味はない。それに、烈しい雨をここ以外に避ける場所がなかったのも事実なのだ。朝方まで熱のあった紗理奈をこれ以上雨に濡れさせたくないと考えた彼の厚意をありがたく思うべきで、ホテルという場所柄だけで妙な風に勘ぐる紗理奈の方がどうかしているのだ。
ホテルの建物全体はこじんまりしていており、外壁そのものが蒼く塗装されている。曇りガラスの自動ドアが開き、香が先に入った。流石に紗理奈が躊躇いを見せると、困ったような顔になる。
「やっぱり、嫌だよね。ごめん、止めよう」
作品名:優しい嘘~奪われた6月の花嫁~ 作家名:東 めぐみ