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優しい嘘~奪われた6月の花嫁~

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「ラナンさんって、凄く可愛いけど、笑い声まで可愛いんだ」
 香が夏の眩しい陽差しでも見るかのように、紗理奈を眼を細めて見つめていた。笑いながら紗理奈は何故か温かな滴が頬をつたうのを感じていた。
「あれ、何で泣くの? 俺、何か気に障るようなことを言った?」
 香が慌てている。
「駄目だな、今まで男としか付き合ったことがないから。どうも女の子の扱い方が判らない。何か泣かせるようなことを言ったのなら、ごめんよ」
 紗理奈はココアの入ったカップを頬に押しつけた。ほのかな温もりが心までじんわりと滲み、紗理奈の傷ついた心と身体を癒してくれるようだ。
「ありがと、コッコちゃん。私も香君とこうして逢えて嬉しい」
 朝食が終わると、香がブラシと鏡を持ってきた。
「これでも俺は動物美容師の卵だもんね。ちょっと髪触らせて」
 香は四角の鏡を紗理奈の真正面に置き、背後に回ってブラシで髪を梳かし始めた。
「ラナンさんの髪は艶も量もたくさんあって綺麗だ」
 彼の手にかかると、まるで魔法を見ているようである。長い髪を数本の束に分けて少しずつねじって一纏めにし後頭部でシニヨンにする。仕上げにワンピースと同系色の優しい色合いのリボンを結んだ。
「どう? 凄く綺麗、可愛いでしょう?」
 鏡の中の紗理奈は何かいつもと違って見えた。黒い大きな瞳が潤み、頬が少し上気して生き生きとしている。到底、昨夜、五年付き合った恋人と悲惨な別れ方をしたばかりには見えない。
 きっと、それは香のお陰だ。香と出逢ってなければ、コッコに助けを求めてなければ今頃、紗理奈はあのまま電話ボックスで凍え死んでいたかもしれないのだ。死ぬところまでいかずとも、きっと入院しなければならないくらい重症化していただろう。
 不思議だと思う。柿沼に手酷い屈辱を味あわされた直後は死にたい、このまま世界から消えてなくなりたいと願ったにも拘わらず、紗理奈は夢中でコッコに救いの手を求めた。それは紗理奈が死を願いつつも、心のどこかでは生きたい幸せになりたいと切望していたからに他ならない。
 鏡の中の紗理奈はやわらかく微笑んでいる。その小さな鏡の中には紗理奈の頬に頬を寄せて殆ど触れそうなくらいに寄り添って嬉しげに笑う香も映っていた。
  
 紗理奈が香と共に彼の家を出たのは十一時頃だった。彼が後片付けや出かける支度をしている間、紗理奈は携帯で会社に電話をかけ、一日だけ欠勤させて欲しいと連絡した。
「また遊びにきてよ。今度は是非、お袋に逢わせたいんだ」
 香の言葉に、紗理奈は微笑むにとどめた。コッコが男だと判った今、このまま今までのように付き合い続けていって良いものか判らなかったからだ。ましてやメールのやりとりだけならともかく、彼の母親に紹介されるのは幾ら何でも彼の生活に踏み込み過ぎるような気がする。
 静かな住宅街を歩くと、ほどなく私鉄S駅が見えてくる。紗理奈がいつも通勤に利用しているのと同じ電車会社である。愕くべきことに、香と紗理奈は隣町同士に暮らしていた。電車に乗れば二駅離れただけの距離だ。思えば、不思議な巡り合わせだった。例えば極端な話、香と紗理奈のそれぞれどちらかが北海道と沖縄のように遠く離れて暮らしていたとしても不思議はない、それが顔も知らないインターネット世界で友達になるということだ。
 それが、こんな近くに住んでいたというのだから、やはり自分たちは縁があったということなのだろう。
 私鉄のS駅から急行に乗り、一時間。通勤は西方向へ向かっていくのだけれど、今日は東方向といつもとは逆の電車に乗った。そのせいか、見慣れない車窓からの景色が珍しい。歓声を上げて窓を覗き込む紗理奈に、香は
「何だか遠足に行く子どもみたいだね」
 と、優しげな眼で笑っていた。
 と、突如として眼前の風景が今までと一転した。緑の田園風景が続いていたのが、急に視界が蒼一色に染まった。
 まるでサファイアかブルートパーズを嵌め込んだかのような海面が夏の陽差しを一斉に受けて眩しく煌めいている。
 言葉にならない感嘆の声を洩らす紗理奈は、彼に促されて電車を降りた。
 無人のひっそりとした駅を出ると、すぐに一本に伸びた道路に出る。時々車が行き交う他は静かなものだ。その道路を渡ればテトラポッドが見え、更に進めば白砂が果てなく続く浜辺に出る。
「凄い、ね、香君、素敵」
 紗理奈は先刻から、はしゃぎっ放しだ。
 S駅前のスーパーで買った安物の白いミュールを早々に脱いで裸足になった。太陽の熱で温められた砂の温もりとやわらかさが心地良い。
「さっきからラナンさん、凄いと素敵しか言ってないという自覚はある?」
 香はそんな紗理奈を眩しいものでも見るかのように見つめていた。きっと遮るものもないし、夏の陽差しが眩しいのだろうと紗理奈は思ったものだけれど。
 夏の太陽よりも実は香にとっては紗理奈の輝く笑顔の方が眩しいのだとは微塵も考えなかった。
 白いカモメが二羽、寄り添い合うように蒼穹を旋回している。セルリアンブルーの絵の具を塗り込んだような空がどこまでも涯なく続き、水平線の彼方には早くも真夏を思わせる入道雲が浮かんでいた。
 静かに打ち寄せる波の音だけが続く静謐な世界は今、彼と紗理奈だけのものだ。
「少しだけ似てない?」
 限りない静寂を唐突に破ったのは香だった。しかし、その突然の言葉の意味も、この場所に立っていれば即座に理解できた。
 紗理奈は両手をひろげ、全身で海から吹いてくる潮風を感じた。
「本当ね」
 まるで、自分の身体の中で重く淀んでいた澱のようなのが綺麗に洗い流されて、今、眼前にひろがる真っ青な海の色に全身が染め上げられていくような爽快感を感じる。
「オーストラリアのホワイトヘブンビーチでしょう」
 紗理奈は眼を眇めて、はるか彼方を見つめた。どこまでが空で、どこまでが海か境目が見当たらない。空と海が溶け合い混じり合って一つになっているような眺めだ。
 波打ち際、浜辺と打ち寄せる海水が少し入り組んでいるところがあって、確かに見た眼はあの絵葉書と似ている。もちろん、あの自然の奇蹟、世界の至宝と呼ばれている本家本物の絶景には及ばないが。
 でも、紗理奈は香が自分をここに―紗理奈が夢にまで見た大好きな海に似た場所に連れてきてくれた、そのことがとても嬉しかった。
「いつか本当に行ってみたいわ」
「じゃあ、行こうよ」
 紗理奈は最初、彼の言葉の意味を図りかねた。どう返せば良いのか判らぬまま見つめていると、彼の顔が少し紅潮した。
「いつか二人で本物のホワイトヘブンビーチへ」
 紗理奈が行ってみたいと思ったのは憧れていたジューンブライドになって、愛する男との新婚旅行でという意味だったのだけれど、それをわざわざ彼に告げて折角の愉しいひとときを台無しするつもりはなかった。
 紗理奈は静かな蒼の世界を見つめながら呟いた。
「六月ももう今日で終わりね」
 小さな息を吐き、独りごちる。
「とうとう今年も六月の花嫁にはなれなかったみたい」
 呟きが海風に乗ってまた彼方へと運ばれてゆく。自分の儚い囁きがバラバラになってその辺りを漂っているようで、紗理奈は自分が発した言葉の欠片を追い求めるように、視線をあてどなくさ迷わせた。