優しい嘘~奪われた6月の花嫁~
紗理奈はしばらく愕然として風に揺れる自分の下着を見つめていた。ハッとして香を見上げる。
「ううん、謝るのは私の方だわ。本当にごめんさない。見ず知らずのあなたに助けてを求めて、さんざん手間をかけさせてしまって」
香が笑って手を振る。
「見ず知らずじゃないよ、俺はコッコだもの。あと、スーツは家じゃ洗濯できないから、近くのクリーニング店に出してきた。夕方には仕上がるっていう話だったよ」
「何から何まで、ありがとう。迷惑かけついでにもう一つだけお願いして良い?」
「うん、何でも俺に出来ることなら」
「服を貸して貰えないかしら。マンションまで着て帰れるようなものなら何でも良いの。とりあえず一旦家に帰って会社に行かなきゃ」
香が眼をみはった。
「そんな状態で会社に行くのか? 昨夜は熱もあったみたいなのに。ラナンさんは知らないだろうけど、風邪薬も飲んだんだよ?」
どうしても薬を飲まない紗理奈にまさか香が口移しで水を飲ませたとも知らない紗理奈である。気を失った紗理奈を香はタクシーに乗せて自宅まで運んだのだ。
「そうなの―。でも、まだ八時だし、急げば午後からの出社には間に合うから。会社には行かないと」
「たまには何もかも忘れて、のんびりと丸一日過ごした方が良いよ」
紗理奈が逡巡を見せるのに、彼は笑顔で言った。不思議と彼に真正面から微笑みかけて言われると、その気になってしまう。
今まで休みもなしに働いてきたんだから、まあ、良いか。いつもの自分ならおよそ考えられないような思考が働いた。捨て鉢になったとかいうのではなく、何か普段からあくせくしてばかりいる自分をたまには解放してやっても良いかなという、ゆったりとした気持ちだ。
自分を甘やかしてやりたくなったと言い換えても良いかもしれない。
「俺、朝食作るから。朝ご飯を食べたら、海に行こう。ラナンさんに是非、見せたいところがあるんだ」
言葉どおり、彼は出ていってからきっかり十五分後に四角いトレーに乗せた朝食を運んできた。
「たいしたものはできないけどさ」
トレーにはこんがりと灼いたトースト、先ほどのカップにココア、林檎とキーウィ、オレンジをスライスしたものの上にヨーグルトが掛かったデザートがあった。トーストにはバターがたっぷりと乗り、ほどよく溶けている。
「それから、これが着替え。着替えないと食べられないものね」
香はきちんと畳まれた服一式を渡してくれた。ひろげてみると、それはAラインのコットンのワンピースだった。淡いクリームイエローの優しい色で、裾にはぐるりとリーフの刺繍がグリーンで施され、前から見える端っこの一部分にだけ小鳥が赤で刺繍されていた。
「可愛い」
紗理奈が歓声を上げると、香が照れたように笑った。
「これ、お袋の。いかにも昭和の流行っぽいんで、ラナンさんは不満かもしれないけど、こんなものくらいしかなくて」
「でも、お母さまのものを勝手にお借りするわけには」
躊躇する紗理奈に、香が親指を立てた。
「どうせ若い頃に気に入っていたもので、今はこんなデザインは可愛すぎて着られやしないんだから良いよ。それに、ウチのお袋は息子一人でしょ、前から女の子が欲しいって言っててね。俺が早く結婚して嫁さん連れてきたら、お気に入りの若い頃の服をその子に着て貰えないかなとか、馬鹿みたいなことばっか言ってる人なんだ。ラナンさんが着てくれたら、きっと歓ぶよ」
「それじゃ、余計に私が着るわけには」
紗理奈はますます尻込みしてしまう。香が笑顔で言った。
「俺、ラナンさんがその服を着たところを見てみたい、お願いだから、着て見せて」
と、これ年下らしく可愛らしくお願いされれば、紗理奈も着るしかない。しかも、実際のところ、今の紗理奈にはこれを着るしか選択肢がないわけだ。
香は身軽に軒下の洗濯物を取り込んだ。ショーツとブラ、スリップを掴み紗理奈に渡してくれる。
「はい、もう十分乾いて―」
そのときになって、彼は自分が女性用の下着を掴んで、しかもその着用者である女性に返しているという事実を認識したらしい。またしても熟れた果実のように真っ赤になっている。
「あ、ありがとう」
渡された紗理奈までもが変に意識してしまい、受け取ったまでは良いが、どうも香の顔がまともに見られない。
更に数分が経過した頃、紗理奈は控えめに言った。
「香君。着替える間、少しだけ席を外して貰える?」
「え? ええっ、あっ、そうだね。ごめん。別にラナンさんの裸を見たいとかいう下心があったわけじゃ―、っていうか、俺、もう見たし」
言いかけて香はこれ以上は耐えられないといった様子で立ち上がった。
「なに、馬鹿ばっかり言ってんだろう、俺。気が利かなくて申し訳ない。すぐに出ていくよ」
逃げるように出ていったその五分後、紗理奈と香はトレーを挟んで向かい合っていた。
着替えた紗理奈は先刻から気になっていたことを訊ねた。
「お母さまは、今も家にいらっしゃるんでしょう?」
すると、香が笑いながら否定した。
「いや、今は九州の実家の方に行ってる。今は伯父の代になってて、祖母の七回忌をやるんで帰ってるんだ。滅多なことじゃ愕かないお袋だけど、流石にいきなり女の子を連れて帰ってきたら、びっくりするだろうね。ラナンさんは独り暮らしだったよね?」
「私の故郷は広島なの。厳島神社って知ってる?」
「平清盛が作ったという、あの朱塗りの海の上に浮かぶ綺麗なお社でしょ」
「そうそう、実家はその近くで、お土産物屋をしているの」
「へえ、俺も一度行ってみたいな」
何故だろう。コッコが香だと判った今も、彼にならメールで話していたように心の内を何でも話せる―むしろ聞いて貰いたい。
「私、もしかしたら仕事を辞めて広島に帰るかもしれない」
「何で!? 帰らなくても良いのに」
その反応があまりにも烈しかったので、紗理奈は愕いて眼を見開いた。香が申し訳なさそうに言う。
「ごめん、大きな声を出して。何で、帰ろうと思ってるの?」
「広島の母親がね、親戚の伯母さんに見合い話を頼んでるの。結婚するのに丁度良い男性がいたら紹介して欲しいって。私ももう二十八でしょう。そろそろ身を固めて親を安心させないと。せめて三十路に入ったら子どもの一人くらいは欲しいしね」
「見合い、するんだ?」
「ええ、そのつもり。そろそろ本当に考えないと」
「ラナンさんは年上の男が好きなの?」
突然ふられた質問に、紗理奈は眼を丸くした。何故か香はふて腐れたような顔だ。
「別に年上だとか年下だとかは関係ないのよ。最初の彼はたまたま年上だっただけ。大切なのは年齢とかより、その男の人柄かな」
途端に香の顔が明るくなった。
「良かった。じゃあ、特に年上じゃなくても良いんだね」
よく判らないままに紗理奈が頷くと、香はブルーのカップを口につけココアを飲んだ。
「俺のお袋はちょっと変わってるんだ。俺が中学の頃、深夜まで受験勉強してたら、ココアを差し入れてくれるんだけどさ、真顔でこう言うんだよ」
―香、ココアを飲むと、頭が良くなるんだから、これを飲んで、しっかりやりなさいよ。
声色を真似て母親の真似をする香がおかしくて、紗理奈はクスクスと声を上げて笑う。
作品名:優しい嘘~奪われた6月の花嫁~ 作家名:東 めぐみ