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優しい嘘~奪われた6月の花嫁~

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 何度か失敗して漸くスカートをはき終えた。床に散らばったショーツとストッキングが眼に入り、ほろ苦い涙の塊が込み上げてきた。ストッキングは引き裂かれてしまって、使い物にはならないので、丸めてゴミ箱に棄て、ショーツだけ穿いた。
 いつも通勤用に使っているA四サイズのショルダーバッグを肩に掛けて部屋を出る。外には柿沼が壁に長身を凭れかけさせるようにして立っていた。
 紗理奈を見ると、彼はまた先に立って歩き出した。無言なのは来たときと変わらないが、今度は肩を抱こうともしなかった。エレベータで地下まで下り、二人は車に乗り込んだ。
 柿沼がエンジンをかけ、車はホテルの地下駐車場を出た。地上に出てみると、いつしか雨が降り出していた。
 それもそのはずで、今は六月末の丁度梅雨のただ中であった。少し走った路肩で、柿沼は車を停止させた。そこは静かな住宅街で、ただでさえ人通りのない道は今、雨のせいで人影も見当たらない。
 車内は軽く冷房が効いている。車のエンジン音、ワイパーがひっきりなしに動く音、静かな雨音だけが車内の重苦しい沈黙を余計に感じさせていた。
 柿沼はダッシュボードの小さな箱を取り、煙草を取り出した。火を付けると、紫煙がうっすらと立ち上ってゆく。それを眼で追うともなしに追いながら、低い声で唐突に沈黙を破った。
「別れよう」
 笑ってしまいたいほど、予測どおりの展開だ。柿沼は煙草をふかしながらフロントガラスを見つめている。その瞳は遠かった。紗理奈は彼が今見つめているものを自分も見てみようとしたが、それは所詮無駄な努力だと知った。
 恐らく、柿沼が見つめているものは紗理奈との五年間ではない。迫りくる別離を前にして、共に過ごした時間を懐かしんで胸差し迫っているわけではない。恐らく、彼は後悔しているのだろう。今になって、妻を裏切り、無為な五年間を過ごしたことを。
 けれど、彼にとっては無意味であったかもしれないが、紗理奈にとっては意味のある五年間であったはずなのだ。少なくとも、つい今し方はそう思おう、思いたいと願っていた。たとえ、自分たちの関係が今日という日を境に終わってしまうのだとしても、自分が訳も判らず、ただ身体だけが目当ての男に女性としていちばん美しい花の盛りを捧げたのだとは思いたくなかった。
 こんな時、理由を訊ねても仕方がないと判ってはいた。けれど、この期に及んで、紗理奈の中には既に柿沼に良い印象を残して去りたいという殊勝な気持ちはとっくに霧散していた。
「何故? その理由くらい訊く権利はあるわよね」
 助手席から傍らの柿沼を見ると、男が軽い溜息を吐き、煙草を吸い殻入れに押しつけた。
「子どもができた」
 その刹那、胸に去来した想いをどのように形容したら良いのか。
 コドモガデキタ。その短いひと言だけがぐるぐると意味を成さないものとして頭の中を駆け巡った。まるで縁日でよく見かける三角くじのように、空間を意味もなく言葉だけが乱舞している感じだ。
 唐突に渦巻いていた言葉がきちんと整列し、柿沼の告げた意味を理解した。
「子どもができたですって?」
 柿沼は紗理奈が漸く事態を受け容れたと勘違いしたらしい。どこか安堵のような感情を見せて言った。
「体外受精が漸く成功したんだ。先週の金曜日、こっちに帰ってきたときに妻と一緒に病院に行って、そこで正式に妊娠と確定した。出産予定は―」
 滔々と言いかける男の口を塞いでやりたい。紗理奈は沸々と湧き上がるやるせなさを抑えた。
 それでも、 怒りが込み上げた。妻とは不妊治療していたくせに、自分にはピルを飲んで避妊するように命じた。この男には端から紗理奈と生きる道を選ぶつもりなどなかった。よくよく考えれば判りそうな道理なのに、何故気付かなかったのか。いや、気付かなかったのではなく、気付かないふりをしていただけ。
 それはこの男を失いたくなかったから。何と愚かな女! これでは笑い者になったとしても仕方ない。
「馬鹿にしないで」
 気が付けば、紗理奈の手が柿沼の頬に飛んでいた。
 紗理奈は力をこめたつもりはなかったが、意外に大きな音が聞こえ、紗理奈自身の方がかえって愕いたほどだった。
「俺を殴って気が済むなら、好きなだけ殴れ。だが、これだけは言っておく。俺は何もお前に無理強いしたわけでもレイプしたわけでもない。他でもないお前自身が俺に抱かれたがったんだぞ?」
「奥さんが妊娠したと判っていたなら、あなたはどうせ最初から今日、私と別れるつもりだったんでしょう。なのに、何故、私をホテルに連れていったの? 私をいつものように好きなようにした後で、?別れよう?のひと言であっさりと切り捨てるつもりだったの?」
 これから別れようという女を平然と抱く男の神経は狂っているとしか言いようがない。紗理奈には理解の範疇を超えていた。だが、柿沼は薄笑いを浮かべた。
「俺もお前も身体の相性は良かった。最後に一度、お互いに愉しんで綺麗に別れても良いんじゃないかと思っただけだ。現に、紗理奈も何も言わず、ほいほいと付いてきたじゃないか。先ほども言ったが、俺はいつだって紗理奈に強制なんかした憶えはない。お前自身が自分の意思で俺に抱かれたんだ」
 その下卑た笑いを浮かべた顔に唾を吐きかけてやりたい。そんな衝動を紗理奈は必死で堪えた。そこまでしたら、自分もこの下劣な男と同等に輩に成り下がってしまう。
「あなたって最低ね、最後まで」
 そう、哀しいくらいに最低な卑劣な男だった。けれど、そんな最低駄目男にこうして別れを切り出されるまでしがみついていたのは確かに自分なのだ。最後の最後まで、男の気を惹こうと自らフェラチオまでして。一体、どれだけ愚かで恥ずかしい女なのだろう。
 みっともない自分の愚かさに対してどれだけ自分で言い訳したとして意味はない。
 紗理奈は黙って助手席のドアを開けた。柿沼も何も言わなかった。
 車を降りた刹那、冷たい雨が紗理奈の頬を打った。
 神さま、これは何の罰ですか?
 他人のものを五年間奪い続けた私の罪深さに対しての? それとも、結末を漠然と予感しながらも、煮え切らない卑劣な男になおしがみ続けた私への罰なのですか―。
 紗理奈は降りしきる雨の中を無我夢中で歩いた。どこと言って行く当てもない。待ってくれる人もいない。この広い世界に独りぼっちで私はどこに行けば良いのだろう。神さま、どうか教えて下さい。
 雨は止むどころか、ますます強くなってゆく。紗理奈の薄いジャケットもスカートもすぐにずぶ濡れになった。服が身体にまとわりついて歩きにくい。どこまで歩けば、私は心安らげる場所に辿り着けるのだろう?
 前方にちいさな縦長の箱のようなものが見えた。今時、珍しい電話ボックスだ。今の時代は皆、携帯電話を持っているから、こういう昔懐かしい電話ボックスは次々と姿を消しつつある。紗理奈は夢中でその中に入った。
 狭いけれど、雨が降り込まない空間がそこにあるというだけで、今はありがたかった。入るなり身体の力が一挙に抜けて、その場にぺたりと座り込んだ。―寒い、身体が一挙に冷えて凍えてしまいそうだ。もう六月も終わりだというのに。紗理奈はカタカタと身体を震わせつつ、ショルダーバッグから携帯を取り出した。