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続 千にひとつの青い森

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今日、桜の森の奥で、昨日から行方がわからなくなっていた村人が、倒れて死んでいるのが発見された。この人物は加藤大輔55歳。林業を営んでいた。彼がなぜ、この森に入ったのかはわからない。死因は心不全。以前から心臓に持病があったという。私はかつてこの男の噂を聞いたことがある。手癖の悪い、あまり評判のよくない男だった。

佐々木は真面目な研究家だった。春に桜の花が咲くと、トリカブトの花粉を受粉させ、種を作って蒔く。秋にはトリカブトの花粉を収穫し、保存する。地道な作業をこつこつと積み上げていた。
そして毎年秋になると、風の強い日に、森に入り込んだ村人が急死する事件が起きていた。

5年後、1957年4月25日、彼は黒でこう書いている。

『青桜』が初めて花を咲かせた。ピンクの花びらにうっすらと紫色の筋が入っている。
この花に、改良を重ねた『大魔王』の花粉を受粉させる。種ができるのが楽しみだ。
『大魔王』の花粉はさらに危険になっていて、取扱いには細心の注意が必要だ。だが、『大魔王』は繁殖力が強い。品種改良もしやすい。もうすぐ四季咲きの『大魔王』が完成する。そうすれば、秋に花粉を採取して保存しなくても、受粉ができるようになる。危険だが、青い桜の研究には、なくてはならない花なのだ。数年後には、私の研究も実を結んでいるのかもしれない。

その年の秋、10月25日、彼は青でこう書いている。

今日、変な噂を聞いた。
「秋になると、ベランダで翁が笑っている。」
 「風が吹くと、桜の森で人が死ぬ。」
まさか。
私はかつて翁が語った冗談を思い出した。
『大魔王』の苗の本数はしっかり記録して管理している。だが、発芽したばかりの、トレーに数百本芽吹いたばかりの頃に数本持ち出せば、わからない。
それを防ぐために、私は研究室のドアを施錠した。
翁が私の知らないうちに温室に入り、『大魔王』を持ち出すことはできないはずだった。
けれど、あの噂は、翁が言っていた通りだ。
研究所から見える桜の森は、いつもと変わらない。考えてみると、私はいつも研究に追われていて、この先の森の奥に出かけたことはなかった。
いったい、森の奥は、どうなっているのだろう。
明日行って、確かめてみよう。

佐々木朔の記録はここで終わっていた。彼は1957年10月26日、桜の森の奥に入り、帰らぬ人となったのだ。

次の研究ノートの表紙には、私の父の名前、桃山信二があった。父はこの研究所の2代目の研究員だったのだ。表紙には、佐々木が死んで11年後の1968年の日付がある。
父はどんな人だったのだろう。私が母というフィルターを通さずに父に触れるのはこれが初めてだ。そんなことを思いながら、私はノートをめくった。

1968年、4月25日 今日よりここで青い桜の研究を始める。
昨年、1本の木に、青い桜の花が咲いたそうだ。佐々木朔の研究は彼の死によって中断されていたが、私は彼の研究を引き継ぐことになった。佐々木の長年の研究が報われるように、私は研究者として全力を尽くしたいと思う。
今年は残念なことに、青い桜の花は見当たらない。どの花も美しいピンク色をしている。
彼の咲かせた青い花を私も見たかった。

父の書いた文字を追いながら、私は青い桜は本当に咲いたのだろうか、と思った。
青い桜の写真が1枚もないのだ。咲いたと言っているのは、桃山家の人間だけだ。

だが、父の研究の記録は殆どなかった。桃山家の入り婿になった父は、家計を支えるために、昼も夜も働いていた。新城市内で高校の講師をしたり、ビデオ屋等でアルバイトをしたりしていた。研究はおろか、睡眠時間も削っていたに違いない。
桃山家の財布を握っている祖父が、父にお金を渡さなかったのだ。当時、桃山家はまだ地主として店子料を得ており、生活には困らないはずだった。だが祖父は、研究費はおろか、生活費も出さなかった。父は桃山家にとって、収奪の対象であって、家族ではなかった。
「おい、早く青い桜の花を咲かせろ。おまえはちっとも研究所に行かないじゃないか。」
ある日、祖父はそう言って、父を怒鳴りつけた。
「私には青い桜の研究を続ける時間はありません。私が稼がなければ、子供たちが飢え死にします。病弱な青子の医療費も払えない。」
「おまえは結婚前に、『青い桜の研究に邁進する』と誓ったじゃないか。」
「それはあなたが『生活費も研究費も出す』と言ったからだ。」
「金がないのなら、実家から金を持って来い。」
「えっ。」
「かわいい孫と息子のためなら、お前の親は喜んで全財産を差し出すだろうよ。金というものは、奪えるところから奪うものなんだ。」
「なんて奴だ。」
「おまえは唯勝翁の妻と一緒なんだよ。金がない、時間がない、は、ただの言い訳だ。金がないのなら、作って来い。時間がないのなら、寝るな。」
「何だって。」
「寝るな。365日、24時間、桃山家のために働け。おまえの実家にも協力させろ。」
そう言って、祖父は笑った。その横で母も笑っていた。母はいつも祖父の肩を持ち、決して入り婿の父を守ろうとはしなかった。

 桃山家はブラック企業ならぬブラック婚家だった。寝るな、休むな、金を出せ。
逃げ出すか、死ぬまで奴隷になるか、道は2つにひとつしかない。
父は私と弟を必死で守っていた。幼い頃の私は病弱で、入退院を繰り返していた。私の入院費の支払は、重く父の肩にのしかかり、父から金と自由を奪っていた。

青子を安心して育てられる環境を作らなければ、この家は出られない。

父は何度もそう記している。私は涙が出てきた。子供を2人抱えて、しかも病弱な子供を抱えて、家を逃げ出すことは容易ではない。

 1971年 10月20日、父はノートにこう記している。

 明日、青子が退院する。入院費は義理父の金庫から盗み出した。ついでにこの家を出て、どこかに部屋を借りるための金も盗んだ。明後日、青子と勝太郎を連れて、私はこの家を出る。もう、ここでは暮らしていけない。ここに居たら、私は死ぬまで搾取される。私だけではない。私の実家や、私に親切にしてくれる人にまで、桃山家の搾取の手が伸びる。
だがその前に、私にはやらなければならないことがある。
桜の森の奥に植えられている、『大魔王』の処分だ。
唯勝翁は秘密の通路まで作って、『大魔王』を盗み出した。そしてそれを森に植えた。彼だけではない。義理父も、『四季咲き大魔王』を温室から持ち出して桜の森に植えた。
『四季咲き大魔王』は強靭な繁殖力で、森の奥を埋め尽くしている。奥だけではない。どんどん森全体に広がって行く可能性があるのだ。あれを全部処分しなければ、この森は恐怖の森になる。森に入っただけで、人が死ぬ。

父の日記はここで終わっている。
涙が止まらなかった。父は失踪したのではなかった。私と弟を連れて行くつもりで準備していたのだ。おまけに、『大魔王』を処分しようとしていた。