続 千にひとつの青い森
悟君は15歳でこの村を出て行った。外の世界には、悟君がいる。それが私の支えだった。
母の溺愛を受けていた弟にとって、歪んだ水槽の居心地はどうだったのだろう。
弟が何を思っていたのかは、もうわからない。
もう2度と、弟と口を聞くことはできない。
激しく揺れる黒い森は、母の歪んだ価値観の作り出した、巨大な水槽のように見えた。
その闇の中に、母の顔が浮かんだ。母は弟が死んだ時、きっと私を憎んだに違いない。
「なぜ、弟が死んで、おまえが生きている。なぜ、お前が代わりに死ななかったんだ」
そんな母の罵声が森から聞こえてくるような気がした。
携帯で話をしていた近藤が、私に近づいて来て、こう言った。
「あなたの車の走行距離、および、Nシステムを調べました。あなたが自分の車でここに来たことを証明することはできませんでした。」
「私の車を調べたのですか。」
私が尋ねると、近藤はうなずき、さらにこう言った。
「タクシー会社にも照会しました。あなたを乗せて銀狐村に行ったタクシーは見つかりませんでした。」
それを聞きながら、タクシーで往復したら、いったい、いくらかかるのだろうと思った。
「それから、あなたのアパートの部屋も捜索しました。」
「何ですって。」
「大家さんの了解を得て、大家さん立会いのもとで行いました。あなたが弟さんの死に関与したという証拠は何もありませんでした。」
これでもう、あの部屋に住み続けることはできない。
「家出してから10年、実家とは連絡を取っていないというのも、事実のようですね。」
「ええ。」
「今のところ、あなたの共犯者と見られる人物も、浮かんでいません。」
「私の人間関係も調べたのですね。」
怒りが止まらなかった。
彼らは、証拠が出てくるまで、私のすべてを洗うつもりだ。だが、証拠なんか、出るはずがない。私はもう一昨日までの生活には戻れない。歪んだ家を飛び出して、10年かけて築き上げた生活のすべてを、私はわずか2日で失ってしまった。
20歳の時、私は短大卒業と同時に、名古屋の商社に就職が内定した。ところが、母が会社に電話をして、私の内定を勝手に断った。「家を出ていけ」と口癖のように言いながら、母には私を自立させるつもりはなかった。
それを知った時、私は家を出る決意をした。就職先もなく、住む所もなかったが、家の金を盗み出して、バッグひとつで名古屋に出た。ホテルに泊まり、書類を偽造して、安いアパートを借りた。近くのスーパーのレジのバイトに応募して、雇ってもらった。毎日が綱渡りだった。運と努力で乗り切って、今日まで生きてきた。その10年のすべてを、私は失った。
その時、三瓶の携帯が鳴った。
「鑑識が森の入り口に到着しました。案内してきます。」
三瓶は近藤に言うと、嵐の中に飛び出して行った。
嵐に揺れる桜の森を見ながら、私は懸命に思い出そうとした。とにかく、手掛かりが欲しい。私の無実を証明する何かを見つけたい。
幼い頃、私はあの森に行ったことがある。そして、私はあの穴の中に倒れている人を見た。
誰なのだろう。あの時、あの穴の中に倒れていたのは。
研究室の本棚の中には、たくさんのノートが並んでいた。私はその中の1冊を手に取った。
ノートの表紙には、こう書いてあった。
青い桜の研究 佐々木朔
佐々木朔。曽祖父に雇われて、青い桜の研究を始めた人だ。私はノートをめくった。
彼の研究は1945年4月から始まっていた。ノートには几帳面な細かい文字が並んでいた。当時は遺伝子操作ができなかったので、彼は受粉による品種改良を試みていた。青いトリカブトの花の遺伝子を、桜にかけ合わせて青い桜の花を咲かそうと考えていた。そのために、彼はトリカブトの花粉の品種改良に力を注いでいた。ノートには、研究内容が黒のインクでびっしりと書きこまれていた。そして時折、青いペンで日記のようなものも書いてあった。
研究を始めて5年後の1950年10月10日、佐々木博士は品種改良の途中で、花粉の毒性の著しく強いトリカブトを作り出した。彼は青いペンでこう書いている。
これを聞いた唯勝翁は、目をぎらぎらと光らせながらこう叫んだ。
「すばらしい!」
私は耳を疑った。この新種の花粉は、わずかに吸い込んだだけでも、人を殺傷できるほどの猛毒であることを、たった今、説明したばかりなのだ。しかし、翁は興奮して叫び続けた。
「こいつはすごい! このトリカブトを大量に繁殖させなさい。そして森に植えるのだ。」
「それは非常に危険です。森を通っただけで、人が死にます。」
「だから、すばらしいのだよ。」
「何ですって。」
「たとえば村の誰かにこう言うんだ。『この森の奥に、松茸の生えている場所がある』とね。すると、その人は森に侵入して松茸を取りに行こうとする。その途中で、桜の木の下に植えてあるトリカブトの花粉を吸いこんで死んでしまう。これは完全犯罪だ。」
私は言葉を失った。翁は夢中になって語り続けた。
「この森は私有地だ。勝手に入る方が悪い。こっそり松茸を盗みに行く奴が悪い。しかも、この猛毒のトリカブトのことを知っている人間は君と私の2人しかいない。私は屋敷の窓から、森を見ているだけで、人を殺せるのだ。このトリカブトを、私は『大魔王』と名付ける。」
翁はそう言うと、大声をあげて笑い出した。
私は恐怖と怒りで体が震えるのを感じた。思わず私は叫んだ。
「やむをえません。私はこの『大魔王』を処分します。」
「何だと。」
翁は笑うのをやめた。それから慌ててこう言った。
「冗談だよ。冗談。話の通じない男だな。そんなことをするわけがないだろう。」
冗談? なんてたちの悪い冗談だ!
「『大魔王』を処分してはいけない。そんなことをしたら、青い桜の研究はどうなるんだ。『大魔王』の花粉はそのために開発したんだろう。あと少しで成功するかもしれないのに、今ここで『大魔王』を失ったら、今までの苦労は水の泡だぞ。」
悔しいが翁の言う通りだった。『大魔王』の花粉は試す価値がある。ここで青い桜を諦めたくはなかった。
「冗談でも、2度とそんなことは言わないでください。」
私が言うと、
「ああ、もちろんさ。真に受けるなよ。」
翁はそう言って、また笑った。
いつもながら、この男の人格のひどさにはあきれる。
念のために、この研究室の玄関は施錠することにした。出入り口はここしかないので、私が鍵を管理すれば、翁が『大魔王』を盗み出すことはできない。
翌年1951年 4月20日、彼は黒でこう書いている。
桜の花に、『大魔王』の花粉を受粉させた。あとひと月ほどで種ができる。この種を『青桜』と命名する。この木の花が咲くのが楽しみだ。しっかり育てていきたい。
その年の秋、10月12日、彼は黒でこんなことを書いている。
今日は1日中、強い風が吹いていた。そのせいで、青桜の苗木が5本、倒れてしまった。
風よけを考えないといけない。
10月13日には、青でこう書いてある。
作品名:続 千にひとつの青い森 作家名:古い歯ブラシ