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怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった

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7 鏡の奥へ



天井裏から
お見せした
即興に近い
見世物は

それでも
演出家の
目論見どおり

下界一面
血の海に変え

右往左往する
群衆の

尽きることない
悲鳴と
怒号の
大団円で
幕を閉じたが

若い2人の
ままごとの恋の
道行は

演出家が
望んだようには
終わらなかった

天使への
誓いの言葉も
墓場の手切れも
まるでなかった
ことみたいに

惨劇の中
互いを案じ
互いの無事を
祈り合ってた

舞台のおまえは
あの若造を
一心不乱に
目で探してた

まさかあの
血の海の中に
いやしないだろう
いるはずがないと

銅とガラスの塊が
一瞬で
全てを圧した
客席に

ごった返す
舞台の上から
必死になって
目をこらしてた

天井裏から
よく見えた

あんな目で
誰かに案じて
もらったことなど

ただの1度も
経験がない
この怪人には
まるで他人事

高みの見物
きめこんだ

今ごろはもう
互いの無事を
確かめ合って

男の馬車で
早々に

不吉きわまる
このオペラ座から
遠ざかろうと
必死なはず

2人に楔を
打ち込んでやると
私が躍起に
なればなるほど

おまえと奴は
惹かれ合い
距離を縮める

怪人は
絵に描いたような
道化役者だ

その昔
巡業の曲芸団で
叩き込まれた
道化の役が
未だに体に
染みついてる

人は育ちを
隠せない


(2)


どこをどう
さまよったろう

どの抜け道を
どう抜けて
下界の修羅場を
後にしたろう

記憶もないまま
気がついたらもう
おまえの楽屋の
裏にいた

小娘が
ここに
来ることはない

判りきってる
はずなのに
足はここしか
向かわなかった

気がついたら
おまえの楽屋の
鏡の裏に

呆然と
座り込んでた

そのときだ

空耳?

いや
そうじゃない

足元の
カンテラの灯を
慌てて消して
目を凝らしてみた
鏡の向こうに
楽屋の床に

いるはずの
ない人が
ひざまづいてた

真っ暗な中
両手を組んで

冷たい床に
鏡の前に
ひざまづいてた

「シャンデリアの
巻き添えになって
いないなら
今すぐ来て」と

「無事なら
声で教えて」と

「死なないで」と

か細い声で
一心に

気が狂ったかと
思うほど
何度も何度も
つぶやいた

頬に涙が
伝ってた

奴とは
会わなかったのか?

なんで今ごろ
ここにいる?

こんなところで
何してる?

何をぶつぶつ
つぶやいてる?

おまえは何を
案じてる?

誰の無事を
案じてる?

誰に向かって
「死なないで」?

まさか天使?

おまえの師?

この私?

次から次へと
湧いて出る
まるで間抜けな
問いかけを
頭の中で
もて余すうち

歌の調べが
勝手に口を
ついて出た

どうして
『ラザレの復活』
だったか
理由は
さっぱり判らんが
何にせよ

放っておいたら
明日の朝まで

真っ暗闇の
冷たい床に
その姿のままで
居つづけそうで

不憫で
不憫で
ひとりでに口を
ついて出た

どの歌であれ
私が無事で
今ここにいると
気配を察して
くれればよかった

私の声で
今すぐおまえの
気が休まるなら
それでよかった

声には
自信が
あったのに

声は唯一
私の
誇りだったのに

嗚咽で息が
ふらついて

嗚咽で喉が
締めつけられて

よもや音程が
揺らぐなど
音楽の天使に
あるまじき事と

判っていても
限界だった

あの歌が
限界だった


(3)

あのとき
決めた

鏡の奥へ
私の世界へ

私は
おまえを
連れていく

娘がひとり
消え失せたと
地上では
騒ぐだろうが
知ったことか

もう限界だ

死ぬまで声で
声だけで
おまえと関わる
おまえと交わる

そんな茶番は
もう嫌だ!

子供だましは
もう沢山だ!

生涯歌に
いそしむ師弟?

虫唾が走る!
くそ食らえ!

師ではなく
弟子ではなく

人間として
男として
女のおまえの
前に立ちたい

私の無事を
案じてくれた
おまえを
腕に抱きしめて

私は
ここだと
安心させたい

おまえの
頬の
涙をぬぐって

案じてくれた
礼を言いたい

私のために
歌ってくれる
その歌声の
湧き出る場所に
その唇に
口づけたい

声も
体も
心も
すべて

私が
独り占めしたい

ただの
男と女でありたい

心の底から
そう願った

そう願って
何がいけない?

この世で唯一
心許せる
人と頼んだ
母親にさえ

容貌ゆえに
この顔ゆえに
嫌われて
疎まれて以来

女を異性と
眺めることなど

ましてや
女を
欲することなど

どう望んでも
許されぬことと
自分を厳しく
律してきた

その分別も
遠慮も 
理性も
あのとき捨てた

怪人が
怪人に
怪人ゆえに
課しつづけてきた
足枷を
かなぐり捨てた

かなぐり捨てたら

マジックミラーの
姿見は
役目を終えて

おまえをいざなう
ただの無骨な
回転扉に
なり果てた