ファースト・ノート 12 (最終話)
初音の母は一瞬体をこわばらせたが、目を細めて湊人を見ながら言った。
「あなたには本当に申し訳ないことをしたわ。離婚が成立したあとも生活に困窮していたあの人となかなか縁が切れなくて、あの人にも何も告げないまま、あなたを生んだの。けれどあなたは本当にあの人によく似ていて、自分が生んだ子供なのに、成長と共に直視することもできなくなってしまった。日に日に手を上げる回数が増えてしまって――結局、あなたはあの人のもとに引き取られることになったわ。その時からあの人と同棲していた女性が、今のあなたのお母さんなのよ」
湊人はただ呆然と立ち尽くしていた。
「じゃあ母さんとは……血がつながってないってこと?」
「そう……でもあの人は、実の息子のようにあなたを愛してくれた。生活はずっと苦しかったようだけど、きっと今もあなたへの愛情は変わっていないはずよ……」
夜風が湊人の黒髪をさらっていく。湊人は表情を変えずに、ゆっくりとうなずいた。
「オレが初音さんの本当の弟だなんて、なんか信じられないけど、すっげー嬉しいよ」
湊人はそう言って笑顔を作った。そんな表情ができるようになったのかと、要の胸は熱くなった。初音は要から体を離すと、湊人の両手を取った。言葉はなくても、二人の心は通じ合っているようだった。
「でもオレの母さんは、あの人だけだから」
そう言って湊人は目を細めた。初音の母は指の腹で目じりをこすり上げた。
「子供たちがいずれあの人のように命を落としてしまうんじゃないかって、ずっと恐れていたけど……あなたたちはもう、自分の道を歩いているのね」
初音の母は頭を下げると、夜の街の中へ消えていった。残された初音と湊人が、顔をよせあってくすぐったそうに笑った。
そこへ例の小太りのプロデューサーがやってきて要の肩を叩いた。
「素晴らしいライブだったよ。ずいぶん腕を上げたんだね」
咄嗟に返す言葉が浮かばず、要は礼を言いながら何度も頭を下げた。
「いえ……あまりにも手際よくギターの弦を張りかえていたので、驚きました」
「これでも昔はね、ストリートで歌ったりしていたんだよ」
そう言って笑いながら名刺をさし出した。要は事務所名を凝視した。それはメジャーデビューを目指すミュージシャンなら誰もが知っている有名なプロダクションだった。
「事務所、移動されたんですか?」
「前のところとは方針が合わなくて、体よく首にされたんだよ。今のところは、前から僕に声をかけてくれていてね。給料は下がってしまうけど、僕の意向をくんでくれるってわかって、引き抜きに応じたんだ」
「そうだったんですか……」
「だって君を採用しないなんて、ありえないだろう? でもあのとき一度断っておいてよかったよ。この短期間で、君がこんなにも成長するとは思っていなかった。これなら、自信を持って推薦できるよ。新曲のリリースまで一直線だ」
彼は片目をつぶって、よく肉のついた手のひらをさし出してきた。
要が目を丸くしていると、初音が肩にしがみついてきた。湊人が「すげーじゃん、要」と言っている。プロデューサーのうしろに、腕を組んで微笑んでいる晃太郎と、ピースをしながら飛び跳ねている道夫の姿が見えた。彼らはもう、これからの展望を聞かされているのかもしれないと思った。
歓喜に体が浮き上がりそうになるのをこらえながら、要は彼の手を握った。
「よろしくお願いします」
そう言った次の瞬間に、道夫がプロデューサーの背中に抱きついた。あわてる彼を横目に、晃太郎が苦笑している。初音はまた泣き出しそうな顔をしていた。
要は深呼吸をして、空を仰ぎ見た。澄んだ夜空に無数の星が瞬いていた。
***
「本当にいいの?」
がらんどうになった高村家の前に立ち、初音が言った。
雨上がりの湿った風を頬に感じながら、要はうなずいた。
「いいんだ。もう誰も住まないんだから」
ジーンズの尻ポケットに手をつっこんで家を見上げる。先日庭師に手入れをしてもらったばかりなのに、門扉のまわりにはエノコログサが生い茂っている。
『ラウンド・ミッドナイト』でのライブを終えてから、五カ月が経つ。
無人になった自宅を完全に引き払うため、ひさしぶりに自宅に戻ってきていた。
必要なものは東京の仮住まいに送った。残った家財道具を処分し、くたびれたアップライトピアノも専門の業者が運び出した。
徹治が残した書物や標本の類は、全て時任が引き取ってくれた。
手渡した父の論文がどうなったか少し気がかりではあったが、学問に疎い要は、いつか日の当たる場所に出してくれるだろうと希望を持つほかなかった。
来月には取り壊しが始まる。次に来るときは跡形もなく消えているだろう。
心残りなどないはずなのに、こんな時に限って未練がましい思い出がよみがえる。父が錆の浮いた門扉を押して家を出る。ひとりきりで玄関に残されるあの時間――。
車の排気音が聞こえたかと思うと、晃太郎のBMWが私道に停車した。
助手席から湊人が飛び出してくる。
この一年で十センチも背が伸びた湊人が初音にかけよった。
「戻ってきてたなら、よってくれればいいのに」
湊人は今も『ラウンド・ミッドナイト』のアルバイトを続けている。常連客と顔なじみになり、ライブ後のセッションに加えてもらうこともあるそうだ。
「店の中に入っちゃったら、名残惜しくなっちゃうからね」
そう言って初音は眉をよせた。
フルアルバムが完成してからの半年、要たちはライブツアーを行い、メジャーデビューへのはずみをつけた。先日終えた最後のライブでバックバンドは解散――初音は留学のため、アメリカに向かうことになっている。秋の入学はまだ先の話だが、現地での生活になれるため、少しでも早く異国での生活を始めたいとのことだった。
ロサンジェルスに向かう晃太郎と共に、この日、空港で別れを告げる予定だった。
「いいなあ。オレも早くそっちに行きたいなあ」
「湊人はまず、英語の勉強をがんばらないとね」
「わかってるよ。深町は残念だったねー。ロスとボストンじゃ、ずいぶん遠いんだろ?」
湊人は嫌味な顔をわざと作って、晃太郎に体をぶつけた。
「ふん。日本よりよっぽど近い」
晃太郎は腕を組んだまま、吐き捨てるように言った。
結局、初音は晃太郎の誘いを断り、しばらくはピアノの腕を磨きたいと言って、ボストンにある音楽大学への道を選んだ。
「今になってまた学生だなんて緊張するけど、がんばってくるわ」
「もたもたしてると、こいつがバックバンドの後釜を狙ってるぞ」
晃太郎はそう言って、湊人の頭を上から押さえつけた。湊人はその手を払いのけようと、もがきながら言った。
「そうだよ。実の姉だからって、一切、手は抜かないからね」
「わかってるわ。私だって、絶対負けないんだから」
初音と湊人は顔をあわせて笑った。
作品名:ファースト・ノート 12 (最終話) 作家名:わたなべめぐみ