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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 12 (最終話)

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 ピアノの演奏は鳴り止まない。後方に置いていた予備のギターと取りかえてピアノを追いかけたが、そのギターの第六弦まではじけてしまった。

 客席からどよめきが起こる。要はギターを抱えたまま呆然と切れた弦を眺めた。指先が震えている。生演奏をラジオで放送していることが、突然脳裏をよぎった。修正はいっさいきかない――この日のために積み上げてきたものが崩れ落ちていく。

 初音と目があった。彼女は微笑んでいた。あせりも戸惑いもなく、ギターが弾くはずだったフレーズを巻きこんでピアノを弾き続けていた。

 夜空を横切る流星群のように彼女の音色がかけ抜けていく。

 客席のすみで真新しいギターの弦を手にしている男性がいた。こめかみに汗が伝うのを感じながらいったい誰だろう、と考えていると、男が顔を上げた。

 驚いたことに彼は、父の死の直前、要に不採用の電話をかけてきた東京のプロデューサーだった。真冬だというのに額の汗をぬぐって、ずれた眼鏡を押し上げた。小太りの体を揺らしながら、先に弦の切れてしまったギターを抱えている。

 何故彼がこの場にいるのか、すぐにでも聞きだしたかったが、初音は演奏の真っ最中だった。要が戻ってくるのを待っている。

 晃太郎が組んでいた腕から指を出して「弾け」と合図を送ってくる。その隣で道夫がエアギターを弾いている。

 修介の声が聞こえる。「要さん、もっと弾いて下さいよ」
 五弦になったギターを抱え直した。コーラスの初めに戻るのを待ってフィルインする。

 今までのような自分勝手な変更ではなく、初音が築いてきた音楽にしっかりと添って盛り上げていく。足りない高音はピアノが補ってくれる。店内に満ちる無数の音と吐息と熱が混ざり合って昇華していく。思わず笑みがこぼれる。初音も笑っている。

 額に汗の玉がはじける。指の痛みが遠のいていく。

 プロデューサーの男性から、弦の張りかえが終わったギターを受け取った。眼鏡の奥にある瞳は微笑んでいるようだった。要は頭を下げてから、最後のフレーズを弾いた。

 高揚していた気持ちが緩やかに収束していく。終わりへ向かってリタルダンドをかけていく。Bフラットセブンスの和音。ピアノが鳴らす最上段のBフラット。

 初音と目を合わせて息を吐き出した。

 ぽつりぽつりと鳴り始めた拍手がまとまりを見せ、大喝采へと変わっていく。修介の元バンドメンバーたちが両腕を上げて唸っている。湊人と芽衣菜が名前を呼んでいる。オーナーが微笑んでいるのがわかる。初音の母がハンカチに顔をうずめて泣いている。

 初音が拍手を浴びて微笑んでいる。
 要は立ち上がって晃太郎と道夫の腕を引き、ステージの中央に招きよせた。再び歓声が上がる。手持ち無沙汰の晃太郎がこぶしをあげる。道夫はVサインを送っている。拍手は次第にリズムを持ち始め、再びアンコールがかかった。

 オーナーの方を見ると親指と人差し指で小さな丸を作っていた。道夫が要と晃太郎に耳打ちする。提案を初音に伝えるため、要は耳元にくちびるをよせた。

 初音はくすぐったそうに笑って着席した。

 要は熱を持った右手で弦をなでる。始まったのはデビュー曲の『交差点』だった。

 修介の母親が泣いている。肩を抱く兄弟たちも鼻をすすっている。

 充満する熱気の中に一筋の冷たい風を感じた。修介が隣にいてベースを弾いていた。
 初音の母の前に望月浩彰が座っている。きっとそこらに父も浮遊しているだろうと思うと、リハーサル中に感じた奇妙な重みもなくなった。

 観客の表情が緩んでいく。まぶたが熱く、視界が揺らいでいた。手元の感覚もなくなって、この場に満ちているエネルギーの流れに、要はただ身を任せた。



 演奏後、重いベルベット生地の扉を開けて観客を見送った。住みなれた街の夜が終わっていく。人々は音の余韻を抱きながら、明日への展望を巡らせる。

 晃太郎と握手を交わす。道夫が抱きついてくる。興奮した湊人が早口で感想を言っている。隣に初音がいる。こっそり手を握る。熱を持った手で握り返してくる。

 初音が何かつぶやいたかと思うと、去っていく観客の波にとびこんでいった。
 ふりむいたのは初音の母だった。誰もが足早に駅に向かう中、ふたりは黙ったまま見つめ合っていた。

「私、お母さんに聞かないといけないことがあるの」

 先に口を開いたのは初音だった。初音の母は深く息を吐きだしたあと、「そうね」とつぶやいた。

「今夜の演奏を聞いて……もうかくす必要なんてないのだと思ったわ」

 初音の母は、要に視線を送った。「はっちゃん、俺はもう」と言いながら、あわてて彼女の腕を取ったが、初音はまったく身じろがなかった。

 初音の母は、眼鏡を上げながら言った。

「彼は私が生んだ、初音の本当の弟よ」

 ひっきりなしに車が通り過ぎる雑踏の中、彼女の声は痛いほどクリアに響いた。目の前に集音マイクがあって、言葉だけが直接、耳の奥に届いたような心地がした。

 むき出しになったままの初音の皮膚がこわばっている。この手でさすって張りつめた神経をやわらげたい衝動にかられたが、初音の次の行動を待つことにした。

 要の感情は、覚悟していたほど波立たなかった。初音と同じ母から生まれたのなら結婚はもう望めないけれど、音楽のパートナーとしてはきっと一生やっていける――そんな予感があった。

「やっぱり……そうだったんだ」

 初音がぽつりとつぶやいた。しかし、要の中に奇妙な感覚が生まれた。初音の母と視線が合わない。彼女は要の肩越しに、もっと遠くの方に眼差しを向けている――

 要がふりかえると、そこには湊人が立っていた。

「彼が高村さんの息子さんのところでお世話になっていたことは、初音から聞いたわ。あなたには言葉がつくせないほど感謝しているの」

 そう言って初音の母は涙ぐんだ。今度はしっかりと要にむかって微笑んでいた。

「あれ……? 本当の弟って……湊人のことですか?」

 要が素っ頓狂な声を出すと、初音の母もあっけにとられているようだった。

「そうよ。他に誰がいるっていうの?」
「いやじつは……あなたが赤ん坊の頃の俺を抱いてる写真があって、てっきり……」

 そう言いながら、要はズボンのポケットを探った。端の擦り切れた古い写真をさし出すと、初音の母は花が咲いたように明るい表情を見せた。

「まあ、懐かしいわね。この巻き毛が本当に早苗に似ていて愛らしくて、高村さんに写真を撮ってもらったの。もしかして私があなたを生んだとでも思ってたの?」
「はあ、まあ……少し」
「そんなわけないじゃない」

 初音の母はそう言って要の肩を叩いた。要は全身の力が抜けていくのを感じた。初音の腕を握ったままだったことを思い出して彼女を見ると、今にも泣き出しそうな表情で顔をくしゃくしゃにしていた。

 要が豪快に笑うと、初音が胸にしがみついてきた。肩を震わせながら子供のように泣きじゃくった。初音の母が笑みを浮かべていたので、要は強く抱き寄せた。

 そこへネクタイをゆるめた湊人が「初音さん、どうしたの」と言って割りこんできた。