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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 12 (最終話)

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 体の力が抜けて緊張の糸が切れそうになったが、足を踏ん張ってこらえた。心地よい振動だけを胸に残して、次のステージに向かわなければならなかった。



 休憩中、ステージの隅でチューニングをすませてふりかえると、髪をアップにした初音がグランドピアノと向かい合っていた。細いストラップのついた黒のショートドレスにパンプスをはいて、ピアノ本体の中にあるハンマーのあたりを見つめている。あらわになったうなじが白熱灯を浴びて淡く光っている。

「ピアノの声が聞こえる?」

 そう声をかけると、初音は首をふった。こぼれ落ちた後れ毛が揺れる。

「もっと腕を磨かないと、聞こえない気がする」

 黒光りする本体をなでながら言った。普段は薄化粧のくちびるが濡れている。

「指、無理しないで。空白は必ず埋めるから」

 初音は口の端を上げて力強く微笑んだ――いつから指のことに気づいていたのだろうか。手の痙攣に悩まされていた初音だからこそ、見抜いてしまったのだろうか。

 初音は要の手を取った。彼女の細い指は氷のように冷えていた。張りつめた皮膚から緊張が伝わってくる。
 要は両手で包んで強く握りかえした。少しでも温めようと熱を送った。



 晃太郎のカウントが始まる。神経を一点に集中する。四人の意識がステージの頂点に集まる。ベースのフィルインがゆるやかに入り、高音から十六分音符をつづってピアノの音色が駆け下りてくる。要は弦をなでるようにして手首を下ろす。

 当たり前に続く日常など、どこにもなかった。修介が死に、父の命が終わった。
 おなかに宿った命は当たり前に生まれてくるものと思っていたのに、あの日、初音の股から血が流れ出した。家族になろうとしている命が目の前で消え去ってしまった。

 叫びたい衝動を抑えて救急車を呼んだあのあと、眠ったままの初音を見ながら、家族を持つことに恐怖を覚えた。

 守るものが増えれば、失うときに大きな痛みを伴うことになる。それはきっと、修介や父が死んだ時よりはるかに強い苦痛を感じることになるだろう。

 けれど、握った手をもう離せないと思った。たとえ自由を失ったとしても、憧れ続けた家族の温もりを初音の中に見つけてしまった。

 あらわになった肩が揺れている。彼女のアレンジによって色彩を増した楽曲が店内を満たす。観客たちは酒と音楽の溶け合った空間に身をゆだねる。

 徐々に右手の薬指の神経が麻痺し始める。事故にあってから本番直前は弾きすぎないようにしてきたが、今回はそうはいかなかった。弾きなれたオリジナル曲はともかく、カルテットの曲目はどれも難易度が高く、寝る間も惜しんで練習してきた。自分の中にはジャズの下地がない。指を酷使して弾けば弾くほど焦りは募るばかりだった。

 何百回と弾いてきたアルペジオがうまく紡げない。薬指と小指で弾く音が、ドラムのリズムからこぼれ落ちていく。フレットを握る左手とかみ合わなくなってくる。
 冷や汗が伝う。健常な指までもつれていく。

 ピアノの音がさりげなくかぶさってきた。ギターのアルペジオを引き継ぎ、ピアノのソロへと運んでいく。見事な手さばきに嘆息しながら、安心してストロークに戻る。

 晃太郎が次々にシンバルを叩く。親を失い、自らを傷つけ、なお息子を失った彼のリズムは今もなお揺るぎなく要の前に立ちはだかっている。

 その圧倒的なリズムを超えられなくても、共に演奏することはできる。
 迷いはない。晃太郎と道夫が築く安定感のあるプレイが要と初音の音色を支えている。

 フルアルバムに収録する予定の新曲『マイマザー』を披露する。雨上がりのバス停に立っていた美穂の姿を思い出す。血はつながっていなくとも、彼女は間違いなく愛情を注いでくれた母親だった。言葉に表せない想いを歌う。誰の心の中にも住んでいる母の像に、感謝の気持ちを伝えるように。

 最後に『雨上がりの落日』を歌った。ギターの弾き語りで始まり、修介をイメージして作ったベースラインがかぶさってくる。

 スタンドにつけたブルースハープを吹き鳴らす。
 降り続く雨もいつかは上がる。冴えわたる青空もつかの間、濡れた街は茜色に染まり人々は心を燃やす。夜のとばりが下りる頃、家に帰って疲れた体を休める。
 そしてまた、朝日が晴れわたる空を照らす。

 喪失の痛みを和らげながら、人は明日へと向かっていく。避けられない別れが来るとわかっていても、無数の絆を結んでいく。足早に過ぎ去っていく日々の中で、出会うたびに別れの覚悟を決め、ひたすらにギターを弾いてきた。心の交感が確かにあったことを残すために。そこに生きた人がいた証を刻むために――



 スタンディングオベーションの鳴り止まない拍手の中、晃太郎と道夫が立ち上がった。満足そうに声援に応えている。視線を交わすと、晃太郎は口の端を持ち上げて笑った。道夫は右目をつむってウインクをした。わざとらしいのに愛嬌のあるその表情に笑っていると、アンコールの手拍子が始まった。

 初音が長い譜面を並べる。要は観客の呼び声にリアクションを返しながら、手早くチューニングをする。晃太郎と道夫は客席の隅に腰を下ろす。

 暗がりの中、初音の母が一心にこちらを見つめているのがわかる。レジスターの前に立ったオーナーも姿勢を崩さない。

 MC用のマイクをひきよせて曲の紹介をする。作曲者は『ラウンド・ミッドナイト』でも活躍した望月浩彰であること。亡き父の遺作を初音と湊人が守り続けてきたこと。これから先、要自身がそうであったように、多くの人たちの心の拠りどころとなってほしい曲であること。

 初めにひとつの音。生まれくる命を待つ静寂。響き渡る産声。

 腹に子を宿して以来、この曲の見え方が変わったと初音は言った。音の積み上げでしかなかったコードのひとつひとつに赤子の声が聞こえる。親の痛みが伝わってくる。初音の半身だと思っていた曲は、父となった男からの祝福のメッセージだと気づく。

 それは要がずっと欲し続けてきた言葉でもあった。

 自分が産まれてきたことに意味があるのか、置き去りにされるこの身に何の価値があるのか、問い続けて生きてきた。去っていった母を恨んだ。家に帰らない父を憎んだ。

 けれど初音に宿った命を想うたび、自分がこの世に存在する理由を見出せる気がした。

 初音の耳たぶにつけられたガラスのイヤリングが揺れている。むき出しの肩が上下する。十本の指がそれぞれ独立した生き物のように鍵盤の上を這いまわる。
 要は追従するようにカッティングと指弾きを繰り返す。

 中盤からピアノの高速フレーズに突入した。

 脳内にある音を忠実に再現するように、初音は鍵盤を叩き続けた。要もギターを構える。ピアノと共に三十二分音符の羅列を重ねていく。ぴったりとユニゾンでどこまでも駆け上がっていく。目の前の観客が、息を飲む音が聞こえる。

 初音の指は止まらない。要は手のひらが汗ばむのを感じながら必死に弦を弾く。

 次の瞬間、ギターの第六弦が大きな音を立てて切れた。弦は譜面台にあたって跳ね返り、要の頬を打った。