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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 12 (最終話)

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「鍵盤の跳ね返り方もペダルの重さも、家のピアノとそっくりなの。きっとお父さんがそういう風にセッティングしたのね。そのせいか、あの曲はものすごく共鳴するの。全部持っていかれないように堪えるんだけど、気づいたら我を失ってて」
「俺も一緒。やっぱりなんかいるよ。死んだプレイヤーが俺のライブを聞きに全員集合してるんじゃないかな」
「まさか」

 初音はリラックスした表情で笑った。何か思い立ったように立ち上がり、出演者の荷物を置いたソファから小さな紙袋を取り出した。

「これ、さっき湊人から貰ったんだけど」

 テープをはがして開封しようとすると、通常業務に戻っていた湊人がモップを片手にやってきた。袋の中身が何なのか聞いたが、湊人は満面の笑みを見せて黙っていた。

 中からカセットテープが三つ出てきた。それぞれのラベルに英語でタイトルが書かれている。ボールペンで書かれた手書きの文字はにじんで薄れていたが、ジャズのスタンダード曲が多いようだった。

「それ、父さんが残したライブ録音なんだ。青いテープの曲名、見てみて」

 言葉を失ったまま、初音は青いカセットテープを手に取った。裏返してクレジットを見る。十一曲目が空白になっている。

「ここ、『ファースト・ノート』なんだ」

 要もカセットテープに手をかけた。この曲の原型を知っているのは初音と湊人しかいない。初音が推測でつけたコードを教わってギターでも弾けるようになったが、長い時間をかけて初音が弾きやすいようにアレンジしてきたと聞いている。その点では湊人がストリートライブの時に弾いたものの方が原曲に近いはずだった。

「これ、湊人の大切なものでしょ」
「オレはもういいんだ。父さんのプレイは一旦全部忘れろってオーナーに言われたんだよ。オレは望月浩彰のコピーじゃない。坂井湊人だけのプレイをしろってさ。簡単に言ってくれるけど、そんなすぐに消せなくって大変だよ」

 湊人は困ったように笑って言った。彼が高村家にいた頃に弾いていた曲は、ここにタイトルが書かれているものばかりだった。あの演奏はほとんどが父親の録音からコピーしたものだったのだろう。三本とも目を通したが、今回のカルテットの曲はひとつも含まれていない。湊人はクレジットの空白を指差した。

「この曲を野外ライブで聞いたとき、父さんには悪いけど、オレは初音さんと要の演奏の方が好きだって思ったよ」

 初音は微笑みを返してカセットテープを袋に入れた。瞳には光が戻り、ピアニストとしての自信を取り戻しているように見えた。

「今夜の演奏、期待しててね」

 初音が手を差しだすと、湊人はサロンで手のひらをふいてから握り返した。

 重い扉を開いて外に出ると、顔に冷気が吹きつけた。ショウウィンドウの前で黒いシャツに着替えた晃太郎がのびをしている。雨上がりの街に夕日がさしこみ、濡れた路面が茜色に染まる。

 昼と夜のはざまに立ち尽くす。黄昏の時刻が迫る。店の表看板に明りが灯る。ダークレッドの下地に淡く光る下弦の月。雨水に洗われた繁華街に、頬を切るような風が吹き抜けていく。

 晃太郎が背中を叩いた。肘で押しかえすと、首に腕を巻きつけてきた。うらやむほど太い二の腕をしていたが、ギターを弾く自分に必要なものではないと割り切った。

 彼は「指を冷やすな」と言って、要を扉の内側に押しこんだ。
 まもなく開店時刻になる。経験したことのない緊張が、体にまとわりついて離れなかった。



 店内を埋める客の多くはラジオ番組の抽選に当たった要のファンで、その中に音楽関係者がまぎれこんでいる。手筈を整えてくれたプロデューサーの隣に、落ち着かない様子の修介の家族が座っている。芽衣菜と修介の元バンドメンバーたちが必死になって初音に手を振っている。

 一番奥の席に初音の母が座っていた。キャンドルの淡い灯が顔をほの白く照らす。向かいの席が空いている。そこは望月浩彰の特等席だった場所だ。

 頭をふってギター用の椅子に着席した。白いシャツの袖をまくり上げる。
 オーナーが横に寝かせていたベースを担ぎ上げると、誰かが口笛を鳴らした。オーナーが手を上げて応えると、あちこちから歓声が上がる。

 湊人がピアノの椅子に着席すると、わずかにどよめきが起こった。湊人自身は何にも動じず、練習時と変わらない動作で譜面を並べている。目を細めて静かに着席する姿は、初舞台とは思えないほど堂に入っていた。

 カルテットの演奏が始まって数曲弾くうちに、要の指の動きが鈍り始めた。カッティングの最中は気にならなかったが、ギターソロの佳境に入ると、ひきつるような痛みが右手の薬指を支配する。うしろからオーナーの視線を感じる。
 無理やり最後まで弾ききると、湊人のたどたどしいMCの合間に、オーナーがうしろから小声をかけてきた。

「心のままに弾けばよいのです」

 練習中も言われたその言葉を、どうくめばいいのかわからないままだった。あくまでも湊人が中心で、自分が勝手に弾けば迷惑することだろう。ソロの最中とはいえ、作り上げてきたものを崩してしまう恐怖を感じたのは初めてだった。
 指のしびれがおさまらないまま、最後の曲が始まった。初めてのステージとは思えないほど完璧な演奏をしてきた湊人はすっかり観客の心を掴んでいるようだった。

 その湊人が、曲の終盤で乱れ始めた。

 見失ったコード進行を取り戻せず、単純な和音を繰り返し弾く。コーラスの初めに戻ってすぐに立ち直ったように見えたが、視線が譜面の上を泳いでいるのを見る限り、平常心は取り戻せていないようだった。ピアノソロのはずのコーラスに大きな空白が生まれる。湊人の指の動きは回復しない。

 それまでバッキングに徹していた要がギターのアドリブを始めた。湊人の空白を埋めるつもりで始めたフレーズが生き物のように蠢きはじめる。ギターの動きにベースとドラムがついてくる。湊人も必死になって和音を叩いている。

 客席から歓声が聞こえる。
 想像をはるかに超えたグルーブがプレイヤーの間でうねっている。足の裏から頭の頂点にむかって快感がせり上がってくる。要が紡ぐフレーズのひとつひとつに反応が返ってくる。顔を見なくても、興奮が伝わってくる。

 ピアノの音が戻ってきた。予定していたフレーズではなく、要に合わせて生み出された新しい旋律だった。二人が紡ぐ音は複雑に絡み合って、竜巻の上昇気流のようにあらゆるものを巻きこんでいく。

 曲の絶頂に達し、テーマに戻ると観客席から声が上がった。

 最後の音を四人でぴたりと合わせると、拍手が起こった。要は立ち上がって声援に応えたが、湊人は呆然とピアノの前に座ったままだった。ギターを持ったまま歩み寄って立ち上がらせると、湊人の頬に涙が落ちた。練習中さえ見せたことのなかったミスが頭の中で回り続けているのだろう。「なんで泣くんだよ」と言うと、「泣いてないっ」と言って顔を上げた。泣き顔が初音そっくりで思わず笑ってしまった。

 観客席から口笛が聞こえた。誰かが「ミナトー!」と叫んだ。湊人は涙をこらえながら頭を下げていた。