ファースト・ノート 12 (最終話)
12.アフター・ザ・レイン
本番当日は、朝から冷たい雨が降っていた。『ラウンド・ミッドナイト』の表にあるショウウィンドウが水滴に覆われている。いつもなら排気ガスで充満している目の前の通りも、灰色の空の下に沈んでいた。
要は錆ついた傘立てからビニール傘を抜いて通りに出た。アスファルトにはねる滴がブラックジーンズの足元を濡らす。湊人が走っていった道は雨霧に遮られて数メートル先しか見えない。もうすぐカルテットのリハーサルが始まるというのに、忘れ物をしたと言って社員寮に戻った湊人が戻ってこない。
ステージ上にはすでに晃太郎と、ウッドベースを抱えたオーナーが待機している。接客中は必ず羽織っている黒のジャケットを脱いで、真っ白なシャツに紺地のネクタイをしめている。
今回のライブにあたり、湊人を中心にジャズのカルテットを組まないかと提案したのはオーナーだった。ベースはオーナー、ドラムは晃太郎、とそこまではよかったが、「ギターは高村さんにお願いします」と言われたときは耳を疑った。
湊人の初ライブという名目で、自分にこのステージに立つだけの価値があるか試されていると、笑みを絶やさないオーナーのまなざしから強く感じた。
二ヶ月間、必死になってジャズの弾き方を学んだ。肌で感じるのが一番だと言うオーナーの助言に従って毎晩のようにジャズのライブハウスに入りびたり、ギタリストが出演した夜は弾き方を教わったりした。教則本を読みあさってコードの仕組みを理解しようとつとめたのも初めてのことだった。
閉店後、練習を許された湊人の演奏を聴くたび、焦りを感じた。これまで誰からも指導されたことがなかった分、彼の成長速度は冷や汗が出るほど急激なものだった。
その中で誰よりも焦燥感を募らせていたのは初音だった。就職が決まって働き出してからは、ピアノと向き合う時間は激減したと聞いている。目をつむっていても鍵盤を叩けた頃とは違い、感覚的なテクニックは鈍る一方だと言っていた。
ライブの話を持ちかけて以来、憑りつかれたようにピアノに向かい始めた。体の心配をしても弾いている方が気がまぎれると言って聞く耳を持たない。才能に任せて弾いてきたこれまでとは違い、無駄な要素をそぎ落としていく姿はまるで研がれていくペティナイフのようだった。
ドラムセットの前に座った晃太郎が小気味よくハイハットを刻んでいる。頼めばどんなリズムでも叩いてくれる引き出しの多さと、鮮やかな手つきに思わず嫉妬してしまう。
晃太郎が振り子時計に視線をふった。ピアノ抜きで始めるしかないかと思って要が立ち上がると、湊人が息を切らしながら駆けこんできた。
胸を押さえて呼吸を整えようとする湊人の姿に、初音が安堵のため息をついた。
「初音さん、これリハーサルが終わったら開けて」
封をした小さな紙袋を手渡すと、慌ただしくグランドピアノにむかった。
曲のテーマとソロのタイミングを一通り確認する。オーナーの手慣れた指示のおかげで、あっという間にカルテットのリハーサルは終了した。
今度は道夫がベース用のアンプに座ってチューニングを始める。彼が抱えているベースは、生前の修介が使用していたものだ。
「今夜は心をこめて弾きまーす」
そう言いながら修介が得意だったスラッピングを披露した。赤と白のプレシジョンベースを体の一部のように操り、リズムに乗って体を揺らす。要がいくら弾いても鈍い音しか鳴らさなかった修介のベースは、道夫の手によって全ての弦が張り替えられ、よくのびる力強い音色を取り戻していた。
道夫のリズムに合わせて初音がピアノの鍵盤を叩きはじめる。
循環コードを何度か繰り返したあと、ドラムが入ってきた。ピアノの旋律が始まり、即興で曲のようなものが出来上がっていく。
はやる気持ちを押さえながらチューニングを済ませると、タイミングを見計らってギターのストロークを始めた。晃太郎がリズムに微妙な変化をつける。
循環コードから脱却するように、初音が新しいコードを組み込んでくる。
ドラムとピアノの動きに道夫が柔軟に対応する。
いつの間にか要のオリジナル曲『浮遊雲』に展開していた。全身の毛穴が音という音を吸収しようとして反応する。足りないものを補いながら、無数の音が要に迫ってくる。
ステージ内部に、年輪のように重なったプレイヤーの魂と混ざり合い、意識と体が溶け合っていく。
「本番までとっておこうね」
肩を叩いて要を制止したのは道夫だった。
弦に触れていた指先にしびれを感じる。膝から下の感覚が鈍っている。
ギターをスタンドに置き、うながされるようにして客席に座った。天井を見つめていると、遠ざかっていた生気がようやく体の中に戻ってきた。
隣に座った晃太郎が煙草に火をつけながら言った。
「リハであんなに飛ばすとは、おまえらしくないな」
「なんかいるなあ……ここ」
うなだれて髪をかきながら言うと、晃太郎は水の入ったグラスをよせてきた。
「物の怪の類か」
「怨念というか執念というか……でっかいエネルギーの塊みたいながもっと弾けってあおってくるんだよ。気づいたらギターも声も聞こえなくなってた」
水を飲むと耳の奥が抜けた。耳鳴りがしていたことにも気づいていなかった。
「晃太郎はそういうの、感じないのか?」
「さすがに霊感はないよ。あの暴れ馬を制御するので精いっぱいだ」
煙草をはさんだ二本指でドラムセットをさした。
「ビビッて叩けば全く響かないし、思いっきりいくと音が割れる。俺が叩いてるはずなのに、なぜか操られてる心地がして飲みこまれそうになる」
晃太郎は煙草の先を灰皿に押しつけた。まだ半分以上残っている。もう一本取り出そうとしたが、彼は箱を握りつぶしてテーブルに放り投げた。
「そういう意味では、あっちの方が化け物だろうな」
晃太郎の視線はグランドピアノに向いていた。初音が熱心に鍵盤を叩いている。並べた譜面を全く見ずに、『ファースト・ノート』の後半に出てくるピアノソロを延々と繰り返している。
予定のコーラス数をこえても止まる気配がなく、要は初音の肩を叩いた。
ぷっつりと音がやんだ。初音は目を丸くしている。
「サウンドチェックはすんだから、休憩しよう」
しばらく要を見つめたあと、また鍵盤に手を持っていった。要が手を握ると、初音は深呼吸をして顔を上げた。
「もうちょっと弾かせて」
「三十分近くぶっ続けで弾いてる。本番前はそんなに弾かない方がいい」
引っぱるようにして客席の奥に座らせた。
初音は遠い目をして指を動かしている。曲の世界に引きずりこまれたまま戻ってきていないらしい。彼女の母が言っていたのはこのことか、と思った。
まわりに誰もいないことを確認してから、口の中に舌を押しこんだ。
初音は要の体を押しのけた。今度は目の焦点がしっかりと合っている。
「あのピアノ、弾きづらい?」
「え……そんなことないけど、なんで?」
「晃太郎があのピアノは化け物だって言ってたから」
そう言って仏頂面でドラムを叩く真似をすると、初音の表情から笑みがこぼれた。
本番当日は、朝から冷たい雨が降っていた。『ラウンド・ミッドナイト』の表にあるショウウィンドウが水滴に覆われている。いつもなら排気ガスで充満している目の前の通りも、灰色の空の下に沈んでいた。
要は錆ついた傘立てからビニール傘を抜いて通りに出た。アスファルトにはねる滴がブラックジーンズの足元を濡らす。湊人が走っていった道は雨霧に遮られて数メートル先しか見えない。もうすぐカルテットのリハーサルが始まるというのに、忘れ物をしたと言って社員寮に戻った湊人が戻ってこない。
ステージ上にはすでに晃太郎と、ウッドベースを抱えたオーナーが待機している。接客中は必ず羽織っている黒のジャケットを脱いで、真っ白なシャツに紺地のネクタイをしめている。
今回のライブにあたり、湊人を中心にジャズのカルテットを組まないかと提案したのはオーナーだった。ベースはオーナー、ドラムは晃太郎、とそこまではよかったが、「ギターは高村さんにお願いします」と言われたときは耳を疑った。
湊人の初ライブという名目で、自分にこのステージに立つだけの価値があるか試されていると、笑みを絶やさないオーナーのまなざしから強く感じた。
二ヶ月間、必死になってジャズの弾き方を学んだ。肌で感じるのが一番だと言うオーナーの助言に従って毎晩のようにジャズのライブハウスに入りびたり、ギタリストが出演した夜は弾き方を教わったりした。教則本を読みあさってコードの仕組みを理解しようとつとめたのも初めてのことだった。
閉店後、練習を許された湊人の演奏を聴くたび、焦りを感じた。これまで誰からも指導されたことがなかった分、彼の成長速度は冷や汗が出るほど急激なものだった。
その中で誰よりも焦燥感を募らせていたのは初音だった。就職が決まって働き出してからは、ピアノと向き合う時間は激減したと聞いている。目をつむっていても鍵盤を叩けた頃とは違い、感覚的なテクニックは鈍る一方だと言っていた。
ライブの話を持ちかけて以来、憑りつかれたようにピアノに向かい始めた。体の心配をしても弾いている方が気がまぎれると言って聞く耳を持たない。才能に任せて弾いてきたこれまでとは違い、無駄な要素をそぎ落としていく姿はまるで研がれていくペティナイフのようだった。
ドラムセットの前に座った晃太郎が小気味よくハイハットを刻んでいる。頼めばどんなリズムでも叩いてくれる引き出しの多さと、鮮やかな手つきに思わず嫉妬してしまう。
晃太郎が振り子時計に視線をふった。ピアノ抜きで始めるしかないかと思って要が立ち上がると、湊人が息を切らしながら駆けこんできた。
胸を押さえて呼吸を整えようとする湊人の姿に、初音が安堵のため息をついた。
「初音さん、これリハーサルが終わったら開けて」
封をした小さな紙袋を手渡すと、慌ただしくグランドピアノにむかった。
曲のテーマとソロのタイミングを一通り確認する。オーナーの手慣れた指示のおかげで、あっという間にカルテットのリハーサルは終了した。
今度は道夫がベース用のアンプに座ってチューニングを始める。彼が抱えているベースは、生前の修介が使用していたものだ。
「今夜は心をこめて弾きまーす」
そう言いながら修介が得意だったスラッピングを披露した。赤と白のプレシジョンベースを体の一部のように操り、リズムに乗って体を揺らす。要がいくら弾いても鈍い音しか鳴らさなかった修介のベースは、道夫の手によって全ての弦が張り替えられ、よくのびる力強い音色を取り戻していた。
道夫のリズムに合わせて初音がピアノの鍵盤を叩きはじめる。
循環コードを何度か繰り返したあと、ドラムが入ってきた。ピアノの旋律が始まり、即興で曲のようなものが出来上がっていく。
はやる気持ちを押さえながらチューニングを済ませると、タイミングを見計らってギターのストロークを始めた。晃太郎がリズムに微妙な変化をつける。
循環コードから脱却するように、初音が新しいコードを組み込んでくる。
ドラムとピアノの動きに道夫が柔軟に対応する。
いつの間にか要のオリジナル曲『浮遊雲』に展開していた。全身の毛穴が音という音を吸収しようとして反応する。足りないものを補いながら、無数の音が要に迫ってくる。
ステージ内部に、年輪のように重なったプレイヤーの魂と混ざり合い、意識と体が溶け合っていく。
「本番までとっておこうね」
肩を叩いて要を制止したのは道夫だった。
弦に触れていた指先にしびれを感じる。膝から下の感覚が鈍っている。
ギターをスタンドに置き、うながされるようにして客席に座った。天井を見つめていると、遠ざかっていた生気がようやく体の中に戻ってきた。
隣に座った晃太郎が煙草に火をつけながら言った。
「リハであんなに飛ばすとは、おまえらしくないな」
「なんかいるなあ……ここ」
うなだれて髪をかきながら言うと、晃太郎は水の入ったグラスをよせてきた。
「物の怪の類か」
「怨念というか執念というか……でっかいエネルギーの塊みたいながもっと弾けってあおってくるんだよ。気づいたらギターも声も聞こえなくなってた」
水を飲むと耳の奥が抜けた。耳鳴りがしていたことにも気づいていなかった。
「晃太郎はそういうの、感じないのか?」
「さすがに霊感はないよ。あの暴れ馬を制御するので精いっぱいだ」
煙草をはさんだ二本指でドラムセットをさした。
「ビビッて叩けば全く響かないし、思いっきりいくと音が割れる。俺が叩いてるはずなのに、なぜか操られてる心地がして飲みこまれそうになる」
晃太郎は煙草の先を灰皿に押しつけた。まだ半分以上残っている。もう一本取り出そうとしたが、彼は箱を握りつぶしてテーブルに放り投げた。
「そういう意味では、あっちの方が化け物だろうな」
晃太郎の視線はグランドピアノに向いていた。初音が熱心に鍵盤を叩いている。並べた譜面を全く見ずに、『ファースト・ノート』の後半に出てくるピアノソロを延々と繰り返している。
予定のコーラス数をこえても止まる気配がなく、要は初音の肩を叩いた。
ぷっつりと音がやんだ。初音は目を丸くしている。
「サウンドチェックはすんだから、休憩しよう」
しばらく要を見つめたあと、また鍵盤に手を持っていった。要が手を握ると、初音は深呼吸をして顔を上げた。
「もうちょっと弾かせて」
「三十分近くぶっ続けで弾いてる。本番前はそんなに弾かない方がいい」
引っぱるようにして客席の奥に座らせた。
初音は遠い目をして指を動かしている。曲の世界に引きずりこまれたまま戻ってきていないらしい。彼女の母が言っていたのはこのことか、と思った。
まわりに誰もいないことを確認してから、口の中に舌を押しこんだ。
初音は要の体を押しのけた。今度は目の焦点がしっかりと合っている。
「あのピアノ、弾きづらい?」
「え……そんなことないけど、なんで?」
「晃太郎があのピアノは化け物だって言ってたから」
そう言って仏頂面でドラムを叩く真似をすると、初音の表情から笑みがこぼれた。
作品名:ファースト・ノート 12 (最終話) 作家名:わたなべめぐみ