ファースト・ノート 11
産婦人科の受診を終え、待合室に腰をかけて精算を待っていると、うしろから肩を叩かれた。ふりむくとそこには髪をボブカットにした芽衣菜がいた。髪の色も落ち着いたダークブラウンになっている。初音は何度もまばたきして顔を確認した。
「どうしたの、その髪型」
「いいでしょ、これ。髪が長いと、どうしても修を思い出しちゃってさー。腹が立つから切ってやったの。初音こそ、どうしたの。あーもしかして」
芽衣菜はにやにやしながら初音のニットコートをつついた。
彼女の明るい表情から何を想像しているのか察しがついて、初音は苦笑いした。
「おなかにいたんだけど、流れちゃって……今日は最後の検査にきてたの」
「あ……ごめん。あたしってどうしてこう配慮が足りないんだろ」
芽衣菜の顔が一瞬にして暗くなった。整えられた髪をくしゃくしゃとかきむしっている。彼女を困らせるつもりではなかったと思い、初音は手を取った。
「予後も悪くないみたいだし、もうすっかり元気だから気にしないで」
自分の顔がこわばっていることに気づき、あわてて頬を緩めた。芽衣菜はうつむいたままポンチョ風の上着を脱いで、隣に腰かけた。
「相手は要、だよね?」
耳打ちするような声で囁いた。初音は動悸を飲みこみながら、小さくうなずいた。
芽衣菜は眉を下げたまま、ほんの少し微笑んだ。それから初音の肩を抱いて、「よーしよし」と背中をなでた。彼女の体温が伝わってきて、全身の筋肉が硬直していたことに気づいた。初音はゆっくりと深呼吸をして、体を緩めた。
芽衣菜の名前が呼ばれると、「ここで待っててね」と言ってあわただしく財布を取り出した。
その後、初音の精算が終わり、二人そろって外に出た。芽衣菜からランチの申し出を受け、学生の頃のような気分で街を歩き始めた。
日が高く昇り、朝に比べると勢いを増した日光が街を温めていた。隣を歩く芽衣菜の耳につけられたリング型のピアスが気持ちよく揺れている。
「こないだ音楽仲間と飲みに行ったら、偶然、深町さんに会ってさ。初音のこと、ずいぶん心配してたよ」
要の父、徹治の通夜以来、晃太郎には会っていない。子供の誕生を心待ちにしてくれていたことには何となく気付いただけに、流産したことをどう伝えればいいのかと考えるだけで、胸がしめつけられた。
「いつものぶすっとした顔でさ、娘の心配するみたいに初音のことブツブツ言って、ものすごい酒をあおってんの」
そう言って芽衣菜は晃太郎の顔真似をした。口をへの字に曲げてグラスを傾けるしぐさをする。初音は思わず吹き出した。
「あの人も子供失くしたらしいね」
初音はうなずいた。子を持つ芽衣菜なら、言わずともその悲しみはわかるだろうと思った。
「奏多がすっかりなついちゃって、おじちゃんとあそびたいよーってそればっかり。そのことを深町さんに話したらさ、その呼び方はやめさせろってすねちゃって」
芽衣菜はいかにもおかしそうに喉を鳴らして笑った。眉間に皺をよせてそっぽむく晃太郎の顔が目に浮かぶ。わかってるわよ、と言って彼の肩を叩く芽衣菜の姿まで容易に想像できた。
「芽衣菜とあの人って、案外相性いいんじゃないの?」
「よしてよ。あんな仏頂面でプライドの高そうな男、めんどくさいだけよ。まるで別れたダンナみたいだわ」
口を尖らせて足元にある小石を蹴った。先のとがったパンプスではうまく当たらず、右足が空振りした。
「このさいだから言っちゃうけど、私、本当は要の子供がほしかったの」
下を向いたまま言った芽衣菜の顔は、笑っていなかった。初音は息を飲んだ。これまでの軽口とはうって変わって、心臓を串刺しにするようなとがった響きをした声だった。
「でも要ってば、どんなに酔っぱらってても絶対にゴムをつけるのよ。あんまり律儀にやるもんだから、先っぽに針で穴でも空けてやろうかとか考えたこともあったわ」
凄味のある声に圧倒されながら、こんなことで揺らいではいけないと自分に言い聞かせた。
「初音が妊娠したってことは、ゴムつけてなかったんでしょ?」
話の矛先が突然自分の方に向いたので、拍子抜けした。女友達ともほとんどしたことのない話をあけすけにいう芽衣菜の顔を見ていると、耳が熱くなっていくのを感じた。
「いやあの……最初は……」
正直に答えるべきなのかわからず、しどろもどろしていると、芽衣菜が肩をつついた。
「ごまかしたって無駄よ。私が子供ほしいから中に出してもいいって言っても聞かなかったのにさー悔しいじゃん。要の心に自分がいないってわかって修とやったら、あっさり死んじゃうしさ」
冷たい風が芽衣菜の短い髪をさらっていった。髪を整えようとして一瞬見せたさびしげな瞳に、思わず心打たれてしまう。
「修くんに出会えて、よかったと思う?」
「そりゃあもちろん。今の私の人生、ほとんど奏多のためにあったけど、修は私を見てくれた。奏多にも愛情を注いでくれた。私が大切にしてるもの、全部を愛してくれた。言葉じゃ言い尽くせないくらい、感謝してる」
目を細めて言った芽衣菜の表情に、素顔が垣間見えた気がした。上着のポケットに手を入れ、空を仰いで彼女は言った。
「この人と家族になりたいっていう感情は、きっと自然に湧きだしてくるんだよ」
人ごみをかきわけて横断歩道を渡る芽衣菜の隣に見えるのは、修介の姿だった。
彼女の小さな顎や、短い髪からとび出した耳や、はっきりとした口調は変わらなくても、瞳からは十代の頃のような野心は消え去っていた。
奏多や修介の話をするときの芽衣菜には優しい光が満ちていた。
先に横断歩道を渡った芽衣菜がふりかえる。強い風が枯れ落ちたプラタナスの葉を撒き散らす。行きかう人の波にもまれても、微塵も揺るがずに立っている。
「初音、こっちよ」
薄い手のひらが、初音の腕を引いた。
冬の日差しを浴びる芽衣菜は、胸にしみいるような力強い母の笑顔をしていた。
***
要に頼まれていた『ファースト・ノート』の譜面を書き上げた日の夕方、要と道夫がなだれ込むようにして大野家の玄関を開けた。
段差につまずいてドミノ倒しになった二人のうしろから晃太郎が姿を見せた。
「いつ戻ってきたの?」
初音は突然吹きこんだ冷気に思わず身を縮めた。晃太郎は耳のうしろのあたりを掻きながら言った。
「……昨日だ。体調はいいのか」
「うん。もうすっかりよくなったから。暇すぎて時間をもてあましてるくらいよ」
晃太郎の頬が緩んだ。このところ見せる柔和な表情は父親だった頃の彼を想起させる。
「少し早いがクリスマスプレゼントだ」
晃太郎がミリタリーコートのポケットを探り始めると、要がうなり声を上げた。背中に乗った道夫を払いのけて慌ただしく立ち上がる。
「それは俺が言うつもりだったの」
要は晃太郎の手をポケットから引きずり出すと、握っていた紙切れをひったくって初音にさし出した。
作品名:ファースト・ノート 11 作家名:わたなべめぐみ