ファースト・ノート 11
それ以来、人前で父の曲を弾くことはなかったが、闇に沈む観客席の中に母の姿を探すようになってしまった。あの日の記憶が消え去ったと思った頃に、突然フラッシュバックすることもあった。社会人になり、給料を得て自分で生計を立てられるようになっても、母の影響下から抜け出すことができなかった。
音楽への欲求が爆発寸前までたまりきっていた頃、要から野外ライブへの出演を持ちかけられた。黒光りするグランドピアノを叩きたくてたまらなかった。リハーサル中のドラムの音色を聞いただけで血液が沸騰しそうになっていた。
欲望に突き動かされた結果、大観衆の前で手が痙攣するという事態を招いてしまった。
要のバックバンドに参加すると決めた以上、何としても克服するつもりでいたが、彼が名付けた『ファースト・ノート』を平常心で弾き続けられるのか――
要が目の前にあるカーテンを開いた。眼鏡をかけた母が、そこに立っていた。
「お母さん……」
「全くもう、無理ばかりして。でもきっと私にも原因があるのよね」
こげ茶のコーデュロイ生地のジャケットを羽織った母が手を伸ばした。いつのまにかずいぶんと皺が増えた手のひらが、初音の手を包みこんだ。
「初音がおなかにいたときもね、稼ぎの少ないお父さんのために頑張って働かなくっちゃって無理して、流産しかけたのよ。一人で突っ走っちゃうのは、きっと遺伝ね」
黒髪を揺らしながら母は微笑んだ。
「あなたが産まれた時、お父さんったらものすごく興奮しちゃって、曲が思い浮かんだからってすぐに帰っちゃったのよ。出産で疲れ切ってる私の心配なんて全然してくれなくて、退院して家に帰った途端、新しくできた曲を聞いてくれって。それが、あなたが弾き続けてきた曲なのよ」
「やっぱり……弾いてること気づいてたよね」
「当然じゃない。同じ家に住んでるんだから。タイトルがなくても、いろんなアレンジで譜面にメモ書きされた曲がそれだってすぐにわかったわ。この子はお父さんが与えてくれた音楽をずっと大切にしてるんだってね」
「弾くなって言われてたのに……ごめんなさない」
喉を絞るようにして声を出した。母の顔が見られなかった。
「いいえ……謝らなきゃいけないのは、私の方だわ」
母の声が震えている。初音が顔を上げると、母は眉間にしわを寄せていた。
「あの人の生きた道をたどるようにピアノを弾くあなたが、いつか同じようにいなくなってしまうんじゃないかって、怖くて、恐ろしくて……」
母は頭を抱え込んだ。うつろな瞳には、事故死する直前の父の姿があるようだった。
「自殺するかもしれないってわかってたのに、私はあの人を止めることができなかった。とっくの前に愛想を尽かして離婚したはずなのに、あの人が死んだあの日からずっと悪夢にうなされたわ。あなたは幼い頃からジャズにのめりこんで、ピアノを弾いている最中は声をかけても全く反応しなかったの。まるで死んだあの人が乗り移ったようだった。それで思わず頬を打ってしまったわ。あなたは何故叩かれたのかわからないって表情で、きょとんとしてた。あなたがあの曲を弾くたび、悪夢はひどくなっていった。いつかあの人が初音をあの世に連れ去ってしまう――そんな妄想がどんどん強くなって、あなたを叩かずにいられなくなってしまった」
顔を覆う母の手のひらから、涙がこぼれ落ちた。見慣れたはずの母が、体を縮めて震えていた。「お母さん」と発声しようとしたが、言葉にならない。脳が膨張するかのように熱くなっていく。大きな耳鳴りがしたあと、喉に流れこんだ涙を飲みこんで母の手をとった。
母の顔は涙に濡れていた。強い人だと思っていた母が、初音の手を握ったまま、ぐしゃぐしゃに泣きつぶれて言った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あなたの人生は誰のものでもないのに」
初音は腕をのばして母にしがみついた。母の整髪料の香りが鼻先をくすぐった。出かける支度をするときは、いつもこの香りが部屋に立ちこめていた。子供の頃から変わらない母の香りが神経を刺激し、どうしようもなく涙があふれた。
「いいの……もう。お母さんの気持ち、痛いほどわかってたから」
肺に酸素が足りなくなって初音は顔を上げた。隣に要がいた。「ひどい顔」と笑ってタオルを二枚さし出してきた。一枚を母に渡すと、恥ずかしそうに顔を上げた。少し表情が和らいでいるように思えた。
これからでも変わっていける――そう思いながら、母に微笑みかけた。
母は顔をふいて息を吐きだすと、要にむかって言った。
「初音のこと、よろしくお願いします」
両手を体の前に揃えて深く頭を下げた。要はその姿にたじろいだまま、言葉を失っていた。母がなかなか顔を上げようとしないので、初音は体を揺すった。
「今更そんなことしなくても。ねえ?」
場を取り繕うつもりでそう言ったが、今度は神妙な面持ちをした要が頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
本人はまじめに言ったつもりらしいが、大仰な言い方がなんともおかしく、初音は母と顔を合わせて吹き出した。
「そういうのが下手なところは、本当に高村さんにそっくりなのね」
母は要の肩を何度も叩きながら大笑いした。こんなに大きな声を出して笑いあうのは、学生の時以来かもしれなかった。
母は目じりにたまった涙をふき取ると、「がんばりなさい」と言った。
初音は要と目を見合わせてうなずいた。口元の小皺をよせて笑ったままの母の頬を、ふたたび一粒の滴が伝っていった。
***
その後、体調が回復しなかったこともあり、三日間の入院生活を経て、自宅に戻る日を迎えた。もうじき退職となる。職場には妊娠していることを伝えていなかったが、今回の件で迷惑をかけたこともあって洗いざらい話した。上司には散々嫌味を言われると覚悟していたが、殊のほか柔和な態度で、他の社員たちも体の心配をしてくれた。
労わりの言葉さえかけてくれる彼らの優しさにふれながら、無理をせず、もっと早くに言うべきだったと悔やんだ。
母には、肝心なことは聞けていなかった。要を生んだ母親は誰なのか――子供が流れてしまった今となっては、誰が親でもいいとさえ思ってしまう。
初音のことをよろしくお願いします、と母が言ったのは、娘として、それともピアニストとして、だったのだろうか。要が実の息子なら娘をお願いしますなんて言わないだろう、と考えてから、流れた子供の父親が誰だったのか、追及されなかったことに気づいた。
当面の先行きを失ってしまった今、自分はどう生きていくべきなのか――営業所での引き継ぎ作業をしながら、途方にくれる毎日だった。
***
その日は朝から一段と冷えこんだ。ジーンズの下にレッグウォーマーをはいて歩いていても、足元からせり上がってくる冷気が体の芯を冷やす。
作品名:ファースト・ノート 11 作家名:わたなべめぐみ