ファースト・ノート 11
緑の一色刷りの厚紙は『ラウンド・ミッドナイト』のライブチケットだった。日付は来年の一月十五日。タイトルは「高村要のサタディ・ナイト・ライブ」となっている。
「このタイトル、もしかしてラジオ局の?」
驚きをかくしきれず、声がうわずった。
『高村要のサタディ・ナイト・ソング』――東京を行き来するようになっても、要は変わらずラジオ番組を続けていた。生放送のために、週に何度も往復することもあった。その努力が実ってこんなかたちになるとは思いもしなかった。
「本番の生演奏をラジオで流してもらえることになったんだ。今の事務所のプロデューサーと晃太郎が方々にかけあってくれて実現したんだよ。もちろんはっちゃんにもでてもらうからね」
そう言って笑いながら要は晃太郎を見た。彼はジーンズのポケットに手を突っ込んでそっぽを向いていた。頬が少し赤くて、照れているのかと思うと笑ってしまった。
初音はもう一度チケットを見た。亡き父が活躍していた頃と同じ字体で、要の名前が記載されている。1stステージに「坂井湊人カルテット」と書かれていることに気づいて、さらに胸が高鳴った。
チケットを持つ手が震えている。歓喜のあまり要に抱きつきたくなる衝動を抑えていると、道夫が足の脛にしがみついてきた。
「気の早いサンタさんだよーん。今夜は前祝いだー」
片足を抜いてあとずさると、道夫が顔を上げた。分厚いまぶたが半分ほど垂れ下がり、頬だけでなく鼻の頭まで赤く染まっていた。
道夫が銀歯を見せて笑ったかと思うと、腕の力が抜け、初音の足元でいびきをかき始めた。要が道夫の脇の下に肩をいれて担ぎ上げる。
「はっちゃんの死んだ親父さんが根城にしてたレストランだって言ったら、車の中で酒飲みながらボロッボロ泣き始めてさあ。僕の親父は厳しい人でさ……とかって昔話を始めたんだよ。酔っ払って何言ってるのか全然わからなかったけど」
要は苦笑いしながらスニーカーを脱ぎ捨ててリビングに上がった。黒いはずのスニーカーが汚れて白っぽくなっている。かかともつぶれている。
晃太郎は伸びきった道夫の足からエナメルシューズを脱がせて、要のあとに続いた。突然の来訪に乱れた三和土に、晃太郎のエンジニアブーツだけが整然と並んでいた。
「誕生日なんだってな」
リビングに入ると、晃太郎が唐突にそう言った。
何のことかわからずしばらく放心していると、手元にあるチケットを指差した。来年の一月十五日。それは初音の父、望月浩介の誕生日だった。
「つまりはプロミュージシャンの追悼式もかねているわけだ。心して練習しろ」
上着のポケットに両手を入れて初音を見下ろした。初めて会ったときと同じ、厳しい目をしていた。けれどその瞳の奥に、一筋の温かい光を感じた。
初音は晃太郎の肘をつかんでポケットから左腕を抜き出した。もうリストバンドはしていなかった。以前は生々しかった傷跡も、傾き始めた夕日を浴びて柔らかな色合いに染まっていた。
じっと見られると落ち着かないのか、顔をそむけてまたポケットに手をしまった。
初音が笑っていると、晃太郎は腕で背中を押してきた。
和室で道夫が気持ちよさそうに胸を上下させている。時計を見た。もうすぐ母が帰ってくる。早くチケットを見せたかった。初音の未来が拓けていくたび、母は自分のこと以上に喜んでくれた。祝い事にお金はかけられなくても、初音の好物をテーブルいっぱいに並べてくれた。それはやはり、掛け値なしの母の愛情だった。
要がテーブルにおかれた譜面を手に取った。ページをめくる彼の手から、興奮が伝わってくる。持参していたギターのハードケースをあわただしく開くと、さっそく弾いてほしいと言って椅子を引いた。晃太郎も顎で催促をしてきた。
紅色のアップライトピアノの前に座る。ふたを開けてカバーをたたむ。譜面を一列に並べてペダルに足をかける。わずかに黄色く変色した鍵盤に指を揃える。
ギターを抱えた要が微笑んでいる。廊下から母の足音が聞こえる。
作品名:ファースト・ノート 11 作家名:わたなべめぐみ