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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 11

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 股の間から生ぬるい液体が流れ出るのを感じた。しゃがんで足の付け根を見ると、太股に向かって月経のときのような血がにじみ出していた。

 視界が暗くなっていく。声を出そうとしたが言葉にならない。遠くで要の声がする。複数の足音が聞こえる。
 痛みに支配された下腹部を抱えながら、行かないで、と何度もつぶやいた。



 視界いっぱいに白い天井が広がっている。耳には医療器具が重なりあう音が聞こえている。廊下で院内アナウンスが流れている。ゆっくりと首を横に向けると、パイプ椅子に座った要が手を組んだまま居眠りをしている。重い手をあげる。患者用の服を着ていることに気づき、思わず体を起こした。腹部に鈍痛を感じて呻くと、要が目を覚ました。

「もう少し寝てなよ。しばらく安静にしたほうがいいって医者も言ってたし」

 掛け布団をかけようとしたので、その腕を強くつかみ取った。

「赤ちゃんは」

 要は深い息を吐き出すと、初音の腕を解いた。うながされて横になる。

「だめだったみたい」
「……そう」

 突きつけられた現実に、思考がついていかない。要はそれ以上何も言わず、ただ初音の手を握っていた。

 点滴の進み具合を見に来た若い看護婦が説明してくれた。流産には様々な原因があり、出血の原因を特定することは難しいが、今後、流産を繰り返さないためにもしばらくは絶対安静だと念を押された。

 今打っている点滴も中身はビタミン剤で、直接的な治療法はないと言った。

「あの……ストレスとか、過労でなることはあるんですか……」

 血圧の測定をされながらそう言うと、看護師は厳しい顔で「もちろんですよ」と答えた。測定値は上が七十四で下が四十、かなり低い数値だった。

 看護師は何度も「絶対安静」という言葉を繰り返し、病室をあとにした。

 要に助けてもらいながら体を起こして窓の外を見た。燃え立つように赤い夕陽が街の中に沈んでいく。白いカーテンで区切られた病室も茜色に染まっていた。

「要……ごめんね……」

 そうつぶやいて指を動かしてみた。うまく力が入らず、握りこむことができない。

「私……自分のことばっかりで、体を大事にすることとか全然考えてなかった。多少無理したって、睡眠不足が続いたって大丈夫だろうって勝手に思って……赤ちゃんのこと、もっと大切にしなきゃいけなかったのに」

 不意に涙がこぼれ落ちた。神経が麻痺しているのか、いつもの胸が熱くなってこみ上げてくる感覚はなく、ただ次々に溢れ出して止まらなくなった。

「ごめん……ごめんね」

 要が肩を抱きよせた。嗚咽は止まらなかった。幾度謝っても涙は尽きなかった。要にしがみついて声を押し殺しながら泣いた。



 日が落ちる頃、要は背中をさすりながら言った。

「それ以上泣いたら、次の子のファースト・ノートが聞けなくなるよ」

 要が言おうとしていることがわからず、初音は涙をぬぐって顔を上げた。

「おふくろさんから聞いたんだけど、親父さんの曲ってはっちゃんの産声を聞いたときに思い浮かんだんだって。タイトルがないから俺が勝手に考えてみた。初音っていう名前にもぴったりだろ?」

 要が笑っている。彼が口にした言葉を心の中で反芻してみる。父の弾くオリジナルの曲が鼓膜の奥で流れている。初音と共に成長し続けた曲は、要のギターが入り、湊人が弾き、晃太郎のリズムが加わることで初音だけのものではなくなった。いずれはこの手を離れていくのかもしれないという予感は、確実なものとなっていった。

 腹に手を当てる。たしかにここにいた赤ん坊の産声をこの耳で聞いてみたかったと思うと、また情けなく涙がこぼれ落ちた。

 初音の冷えきった手の上に、要の手が重なった。
 手のひらの皮がざらついている。指先の弾きだこが大きくなっている。薄皮がむけてあかぎれの走る指もある。握って頬をよせた。

 お互い、やるべきことがある。寄り添ってばかりでは前に進めない。

「もう東京に戻らないとね」

 要が最後に面接をした事務所とは、結局契約が交わせなかった。要と直接話したプロデューサーは、ずいぶん要のために骨を折ってくれたそうだが、社長が首を縦に振らなかったらしい。メジャーデビューの話は白紙に戻り、一日でも早く次のオーディションを受ける必要があるはずだった。

 要の熱を帯びた手を戻そうとすると、要は手首をつかんだ。

「しばらく戻らないよ」
「ここにいてどうするの? 深町も樹さんもずっと待ってるって言ってたのに」
「まだ一曲、完成してない」

 要はメジャーデビューへの道を探りながら、フルアルバムの作成に取りかかっていた。世話になった今の事務所への恩返しもかねて、広く名前を売り出す方針にでたらしい。

 十一曲はドラムとベースも入った状態で仕上がっている。初音の手を加える余地のないほど完成された楽曲が多く、編曲の依頼をされたのは六曲だった。
最近作られた『夢のその先』に関しては、シンプルにギターと歌のみでいいのではと晃太郎と道夫が口を揃えて言っている。

 絶対安静と言われた今の自分に協力できることは少ない。晃太郎と道夫が待っている東京に一日でも早く戻らなければならないだろう、と思った。

 要は初音の白い手に指を絡ませていった。

「最後の一曲は『ファースト・ノート』を収録したいんだ。野外ライブのときみたいに、ギターとピアノで。はっちゃんの容態が落ち着くのを待って完成させてから戻るって、晃太郎と樹さんには言ってある」
「あの……曲を……」

 取り戻した血液がまた遠ざかっていく心地がした。温かい手に包まれているのに、指先は熱を失っていく。

「本当は……あの曲、弾いちゃいけないの。お母さんは、お父さんの曲を耳にすること、ずっと嫌がってた。ずっと隠れて弾いてたの。ジャズの勉強をやり直してた時も、あの曲だけはできるだけお母さんの耳に触れないようにしてた。とても収録なんて」

 指先が震えはじめる。あの時のようにコントロールが効かなくなっていく。


 
 大学三回生の冬――ライブの終盤、バンドの持ち時間がかなり余ってしまい、客席からブーイングが上がったことがあった。バンド内の誰にも聞かせたことのないあの曲をやろうと思いついたのは、神様のいたずらだったのかもしれない。意固地になって続けてきたクラシックピアノとは違い、自分で手を加えてきたこの曲に、人々はどんな反応を見せるのか、知りたい衝動にかられてしまった。

 ライブハウスの舞台が暗転し、スポットライトを浴びる。客席に座る人々の顔はほとんど見えない――演奏中はピアノの鍵盤しか目に入っていなかった。
 歓声と拍手を浴びながら立ち上がる。ステージ上にいたバンドメンバー達が口笛を吹きならした。初音が手をかざしてコールに答えると、天井の蛍光灯が点灯した。

 客席の一番奥で拍手をしていたのは母だった。照明が十分に当たらず表情が見えなかった。母の感情が読み取れず、全身を満たしていた熱が急速に失われるのを感じた。