慟哭の箱 4
(俺はきっと何らかの苦痛を感じたのだろう。そして別人格が顕在化した)
苦痛とは、なんだっただろう。両親を失った痛み?違う、悲しいかな旭は、失って人格を喪失してしまうような人間味のある親子関係を築くことはできなかった。
では何が引き金となって人格がスイッチしたのか?
旭自身の苦痛やトラウマを知ることが、人格を知ることになり、ひいては記憶を途切れさせず生きていくための「人格統合」に繋がっていくのだ。
「これまでの人生でつらく、耐え難い経験があった?」
清瀬の口調は穏やかだが、旭は尋問されているようで落ち着かない。
「…俺は孤児で、でも施設ではよくしてもらって、幸せだった。須賀の両親にひきとられてからは…寂しくてつらかったけど、死にたくなるような経験の記憶がありません。野上先生は、その苦痛は別人格が引き受けていたからだろうって」
つまり自分に代わって耐え難い苦痛を強いられてきた人格がいるのだ。旭は、その見えない誰かを哀れに思うと同時に申し訳なく思う。だって、旭はなにも知らずに平穏に今日まで暮らしているのだから。
「ほかの誰かに苦しみを押し付けて、俺は生きてきた…」
旭は顔をおおう。
許されやしない。そんなこと。
「その苦しみを負う誰かは、きみ自身でもあるんだ。哀れだと己を慰めることはあっても、逃げたと言って自分を責めることはない」
清瀬の静かな声が響く。戸惑いや恐怖を、ゆっくりととかしていく声の調子だった。
「不安もきっとあるだろうけど…野上先生を信じて、ゆっくり自分を知っていけばいい」
不安。そうだ、不安はある。だって自身の存亡にかかわるのだ。このまま記憶を失う時間が増えていけば、やがて旭自身はもう、そのまま誰かの意識の下で、ずっと眠り続けることになるかもしれないのだから。