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相思花~王の涙~ 【後編】

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 と、こればかりは譲らず、結局、すべて返済してくれた。そのお陰で、伯母や養子に行った弟はもう借金を返済する必要もなくなったのだ。
 また、ハンは以後、伯母に毎月、少しずつ極秘で生活費を送ってくれさえした。本当にどれだけ感謝してもしきれない。それゆえ、特別尚宮になってから得た金はすべて自分のために使うことができた。
 都でも随一の宝玉を扱うと評判の豪商を呼びつけた時、ソナは命じた。
―金は出せる範囲なら、幾ら出しても良い。最高のものを用意してくれ。
 多少の無理をしても、金は使うべきときに使うのがソナの信条であった。出費は、いずれ大きな利となり自分に還ってくるはずだ。
 商人は命じたとおり、最高級の品々を揃えてきた。ソナは満足げに頷き、商人が提示した額より少し上乗せして払ってやった。これもまたソナの処世術の一つである。気前よく支払う客は商人にとって間違いなく上客となる。今後、また何か無理を言う時、多少の融通は利くだろう。
 少しばかりの出費を惜しんで大損をするか、無理してでも気前よく金を使い、それを万倍にもして取り返すか。どちらが利口かは三つの子どもでも判る道理ではないか。
 が、この出費は見込んだとおりの成果を引き出してくれたようである。この辺りから大妃の態度が微妙に変わった。少なくとも取りつく島もない態度から、少しはソナの話を聞いてやろうという様子が見え始めたのだ。
 大妃がフと笑った。しかし、あざとい笑みではない。大妃がソナを真っすぐに見つめる。どうやら、この状況を半ばは面白がっているようにも見える。
「この私を相手に臆面もなく取引を持ちかけるとは、身の程知らずの娘よ」
 こうして改めて間近で大妃の顔を見るのは初めてのことだった。やはり、ハンとよく似ている。殊にすっきりとした眼許辺りが写し取ったように似通っている。ほどなく五十に手が届くようには到底見えず、膚にも張りががあり、三十代後半にしか見えない美貌である。
―ああ、この方はやはり、私のお慕いする男(ひと)の母親なのだ。
 不思議な感慨に囚われたその時、唐突に思考は大妃の声によって破られた。
「それで、そなたは何が望みだ?」
 大妃の眼はソナの思惑など容易く見透かすかのように底知れなかった。先刻の状況を愉しんでいるかのような瞳ではない。まるで感情を窺わせない瞳がじいっとこちらを見据えている。
「ここまでの思い切った駆け引きに出たのだ、よもや無償(タダ)であっさりと引き下がるほどのお人好しにも見えぬが、そなたという娘は」
 負けては駄目。
 ソナは膝に置いて組んだ両手に力をこめ、心もち背筋を伸ばした。
「私に正式な側室の待遇を与えて下さいませ、大妃さま」
 大妃が頷いた。
「なるほど、そう来たか」
 大妃はほっそりとした人差し指と親指を顎に添え、しばし黙考した。何か考え事をしているのか、身体がかすかに揺れている。
 随分と刻が経ったように思えたが、ほんのわずかな間のことだったに違いない。ソナは固唾を呑んで、大妃の口許を見つめた。無意識に手入れの行き届いた大妃のこれも年齢を感じさせない艶のある指先を見ていた。
 女官に丹念に手入れさせるのか、爪先は綺麗な桜色に染まっている。
「良かろう」
 眼を見開いた大妃はひと言、投げ出すように言った。
「それほど欲しくば、側室の位は与えても良い。ただし、与えるのは最下位の淑媛(スクウォン)だ。それでも良いか?」
 ソナは勢い込んで頷いた。王朝の歴史は長い。歴代王の後宮では、かつて側室から王妃、或いは側室として最高位の嬪にまで上り詰めた稀有な女性もいた。そんな女性たちも最初は最下位の側室である淑媛から出発したのだ。
「大妃さまが嫁として認めて下さるのなら、私、誠心誠意、王族として大妃さまのおんためにお尽くし致します」
 と、大妃がまた笑った。だが、今度の微笑は先刻の曖昧なものとは異なり、はっきりと冷笑を浮かべていた。 
 その手のひらを返す態度に、ソナの浮き足だっていた心も一挙に冷える。大妃は鼻先で嗤うように言った。
「間違って貰っては困る。私は何もそなたを息子の嫁として認めたわけでも王室の一員として認めたわけでもないぞ。これしきのことで」
 手許の輝く宝飾品を一瞥し、冷たい笑いを刻む。
「私を手玉に取ったと思い上がるでない」
 大妃は小首を傾げた。そうやっていると、本当に若く見える。あどけない少女のようにさえ見える淡い微笑を湛えた花の美貌は到底、二十五歳になる息子がいるようには見えない。
「だが、私相手に小娘がよくぞここまでやったとは認めてやっても良い。ならば、今度は私がそなたに訊く番だ」
 言いながら、大妃は箱から簪を取り出し、部屋の隅に控えて一部始終を聞いている尚宮に顎をしゃくる。ソナを案内してくれた大妃付きの尚宮は恭しく頭を垂れ、大妃の側に来ると簪を受け取り、背後に回った。
 尚宮が大妃の殆ど白いもののない漆黒の髪に珊瑚の簪を慎重に挿す。次いで傍らの鏡台を差し出すと、大妃は鏡台を覗き込み、自らの髪を触り満足げな笑みを浮かべた。
「悪くないな。気に入った」
 ソナは沈黙に耐えきれず、思わず大妃に訊き返した。
「それで、大妃さま、私にお訊きになりたいこととは何でございましょう」
 と、大妃が打って変わってにこやかに笑う。だが、観音菩薩のように慈しみに溢れた笑顔の中、眼だけはけして笑っていなかった。
「やはり、そなたは若いのう。このような駆け引きの際は、相手の出方を見ねばならぬ。先に口を開いた方が負けぞ。後学のためによく憶えておくが良かろう」
 動揺のあまり、ソナは声を震わせた。
「お言葉、胸に刻みます」
 大妃はまた、たいして気もなさそうに笑う。
「まあ、良い。そなたがどうなろうと、私には拘わりなきことゆえ。さりながら、その様子では、まだまだ、この後宮で生き抜くには甘すぎる。主上(チユサン)がのぼせ上がっておられると聞いていたゆえ、どのような妖女かと思うていたが、たいしたことはないのぅ」
 大妃の紅色の唇が笑みの形を象った。まだまだ世間を知らぬ小娘よ、相手にもならぬと言われたも同然だ。ソナが屈辱と衝撃に蒼褪めていると、大妃がまた笑う。今度の笑みは幾ばくかは作りものではないように見える。
「息子の嫁としては認めぬが、個人的にしたたかな野心のある女は嫌いではない。それでは、そなたに訊こう。側室の位階を与える代わりに、そなたは私に何をしてくれる? 私が訊ねたいのは、そのことだ」
 予想外の問いに、ソナも息を呑んだ。一瞬、我が身に問いかける。
 どうすれば良い? 
 何と応えるの?
 ここで負けて引き下がるわけにはゆかない。折角、夢への階段の第一歩を登り始めるところなのだから。
 迂闊な返答をすれば、大妃は前言を翻し、ソナはすぐにこの場から追い返されてしまうだろう。ソナの握りしめた両手にうっすらと汗が浮いた。
 ソナは小さく息を吸い込んだ。
「王子を生んで見せます」
 ハンにそっくりな大妃の眼を見つめながら、しっかりとした声音で告げた。
 短い沈黙があった。努めて平静を装っていたが、ソナの心臓はバクバクと音を立てていて、その音が大妃に聞こえないのが不思議なくらいだ。