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相思花~王の涙~ 【後編】

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 態度だけは慇懃ではあるが、たかが王の承恩を受けた一介の尚宮よと軽く見られているのは丸分かりだ。
 ソナはゆったりと微笑んだ。
「そうか、それは良くないことですね。今日は頭痛によく効くという清国渡りの薬草を持参したのだが、もう一度、大妃さまに取り次いでは貰えまいか」
 大妃に仕える上宮の尚宮であると自負しているこの女はいつも横柄極まりない。いつもならその身の程知らずのふるまいを腹でせせら笑ってやっているが、今日ばかりは違った。ソナは袖から小さな空色の巾着(チユモニ)を取り出した。
「そなたには先頃、後宮に入ったばかりの姪がおるそうな。子のおらぬそなたゆえ、我が娘のように可愛がっていると聞く。大妃さまに上手く取りなしてくれたら、姪のこと、悪いようにはせぬ。私が陽の眼を見る日が来れば、そなたの恩は忘れまいぞ」
 ソナは巾着を逆さにして振った。手のひらに落ちたのは見事な翡翠の指輪だった。
「さ、近づきの印だ。取っておくが良い」
 ソナは尚宮の手に指輪と巾着を握らせた。
 四十ほどの尚宮がソナとまともに視線を合わせたのはそのときが初めてだった。いつもは下賤な女とは眼すら合わせたくないとばかりにそっぽを向いている。
 身分の低い者を見下す人間ほど、実は金や権力には弱い。早くも袖の下が絶大な効果を発揮したのを見、ソナはほくそ笑んだ。
 尚宮は頷くと、何も言わずに引き返していく。もちろん、その前にソナから渡された指輪と巾着を袖にしまうことも忘れなかった。
 ほどなくして尚宮がまた出てきて、ソナに恭しく頭を下げた。
「大妃さまがお逢いになるそうでございます」
 ソナは零れんばかりの笑みを見せた。
「ありがたい。この日の恩は忘れぬ」
 堂々した様子で大妃殿の階を登ってゆく姿は既に側室どころか、中殿になったかのようだ。尚宮は無表情にその後ろ姿を見送り、自身もその後をついて大妃殿に戻った。
 ソナに付き従ってきたシン尚宮や女官は廊下に控え、ソナだけは入室を許される。
 頭痛で寝ていたはずの大妃はちゃんと起きており、豪奢なチマチョゴリを纏っていたし、腕輪・指輪、簪と数え切れないほどの装身具を身に付けていた。あれだけたくさんの簪を挿せば、重さのために頭痛がしても不思議はなかろうと、ソナは大妃のいささか過剰なほど飾り立てた髪を見て思う。もちろん、そんなことは気ぶりほども表に出さないほどの分別は持ち合わせている。
 何でも大妃は珍しい玉石には眼がないと専らの噂である。
 ソナはまず両手を組んで眼の高さに持ち上げ、それから座って一礼し、更に立ち上がって深々と一礼した。最上級の拝礼(クンジヨル)である。
 大妃はその間中、あらぬ方を向いていた。ソナは構わず拝礼後は文机を挟んで大妃と向き合う場所に座った。
「大妃さま、お具合が悪いと聞きましたのに、お逢い下さり、ありがとうございます」
 殊勝に言うと、大妃は鼻を鳴らした。大妃とは思えぬ品の悪さに、ソナは眉をしかめそうになり、慌てて笑顔を作る。
「無駄口は無用、何の魂胆があって来たのかは知らぬが、用があるなら、さっさと用件を言うが良い」
「今日はこちらをお持ち致しました」
 持参した眼にも鮮やかな牡丹色の風呂敷を文机に乗せる。派手好きな性格を物語るかのように、大妃が変わった座椅子も牡丹色、その背後の屏風は四季の花が極彩色で描かれている。
 風呂敷包みの中からは、大きな箱が現れた。何の変哲もない黒塗りのものだ。その箱の蓋を開けると、四角い包みが紐で幾つか括られた薬草とまた別の小箱が出てきた。
「こちらは清国渡りの貴重な妙薬にございます。宮殿の内医院ですら手に入れることが叶わぬと聞き及びおります。何でも血の道から来る頭痛に効果があるとか、是非、お試し下さいませ」
 羹大妃がしばしば頭痛で寝込むというのは、実のところ、半分は本当だ。もちろん、嫌いな者に逢わぬための格好の口実、仮病という線も大いにあり得るが。
 実は、四十代後半の大妃は俗にいう更年期に当たっている。―というのはソナ付きの沈(シム)尚宮に頼んで集めさせた極秘情報だ。シム尚宮は特別尚宮に任じられた時、ハン自らが選んで付けてくれた信頼できる人物である。
 伏魔殿である後宮、隙あらば互いに蹴落とそうとする女たちの中にあって、唯一本音を明かせるに足る側近だ。このシム尚宮は一見穏やかで、確かに思慮深い女性ではあったが、なかなかのやり手だ。今、三十二歳だと聞いている。後宮生活は既に二十年に及び、その慈悲深く誠実な人柄で、多くの若い女官たちからも慕われ憧れられている。
 その一方で、裏から方々の部署に手を回し、あらゆる情報を集めることにかけては天才的な手腕を持つ。どこの世界においても、情報が時にどんな高価な品物よりも価値があるものだ。シム尚宮の許に集まってくる情報は国家機密といえるべきものまであり、ソナもそこまでは知らないけれど、一説には朝廷の大物(議政府の三丞承(チヨンスン))たちとも必要であれば、裏で取引をするとの噂まであった。
 もちろん、大妃付き尚宮が可愛がっている姪がつい最近、女官になったばかりだと知り得たのもシム尚宮の手柄だ。
 そのような辣腕のシム尚宮がいつも側に控え、支えてくれているのだから、ソナにとっては何より心強く百万人の味方を得たようである。
「なるほど、血の道に効く薬、か」
 大妃は呟き、薬包をおもむろに取り上げた。しばらく手のひらで弄んでいたかと思うと、いかにも気のなさそうに文机に放った。
「そのようなもの、御医に既に調合させて飲んでおるわ」
 この大妃の反応は予め予期していたことなので、落ち込みはしない。ソナは婉然と微笑んだ。
「さようにございますか。それでは、こちらはいかがでございましょう?」
 残る一方の小箱を捧げ持ち、大妃の真ん前に置く。黒塗りの宝石箱には蓋に見事なつがいの蝶が螺鈿で細工されている。ソナが蓋を開くと、中からまばゆい光が溢れ出したように見えた。
 流石の大妃も息を呑んだ。
 大妃の顔を見たソナの可憐な面にゆっくりと笑みがひろがった。普段なら、このような時、生意気なと憤る大妃であったけれど、今日ばかりは惚けたように小箱を見つめている。
「―こういうことか」
 大妃は半ば上の空で呟いた。開いた小箱の中には朝鮮国でも三大玉石と呼ばれる翡翠、珊瑚、琥珀をあしらった宝飾品がそれぞれが燦然とした光を放っている。翡翠の耳飾り、琥珀は簪、珊瑚に至ってはノリゲと指輪、簪が対(セツト)になっている。
「いかがにございますか? 珊瑚は春に咲く桜のような色合いにて、きっと大妃さまのお美しい御髪(おぐし)にお似合いでしょう」
 この宝飾品を買うに至り、ソナは金に糸目はつけなかった。両班でもなく、平民でも特に富裕な実家を後ろ盾に持つわけではないソナは、これらを自費で賄うしかなかった。特別尚宮に任じられてから大切に取っておいた給金をあらかた費やしたのである。
 実家の伯父が遺した借金については、これはハンがすべて肩代わりしてくれた。もちろん、ソナは最後まで辞退したのだが、ハンが―妻の実家を援助するのは良人の責任だ。