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相思花~王の涙~ 【後編】

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 言いかけたソナの桜色の唇はハンに塞がれ、何も言えなくなる。何もかも奪い尽くすような烈しい口づけを仕掛けられ、抗議しようとしかけたソナの口からはもう色っぽい喘ぎ声しか出なくなった。
 結局、二人が妓房を出たのは夕刻どころか、陽が沈んで色町に灯りが点り、女たちの嬌声が響き始めた頃だった。
「次回もご贔屓にお願いしますよ、是非、うちの妓も可愛がってやって下さいね」
 大枚をせしめた女将は上機嫌でハンとソナを送り出したが―、ソナが階段を降りるどころか歩くのさえ辛そうにしているのを見て、後で独りごちだ。
「線の細い優男に見えたけど、なかな烈しいねえ。可哀想に、色っぽい奥さんは旦那に相当可愛がられたみたいだ。あたしがあと十年若けりゃア、あの旦那をほっとかないんだけど」

  取引

 ハンと色町の妓房で狂おしく身体を重ねてからというもの、ソナはより身近に彼の存在を感じられるようになった。それは単なる肉欲の交わりのせいというよりは、彼が生まれたときからずっと根底に抱え続けていた孤独をソナがやっと知り得たからといえた。
 更に、宮殿で過ごす夜の交わりも以前より更に親密なものになった。そのことは翌朝、王宮殿の寝所前で宿直(とのい)をした内官・尚宮たちの謹厳で澄まし返った顔に浮かんでいる何とも言えない表情―呆れているようでもあり、微笑ましく思っているようでもあり―で判った。
 もちろん、王に忠誠を誓う彼らはひと言も余計なことは言わず、寝所から時折洩れてくる物音や声に顔を見合わせるばかりであったが。
 そんなある日、暦は十月に入っていた。その日、ソナは後宮出入りの商人に頼んで取り寄せた薬草を持ち、大妃殿を訪れた。
 既に特別尚宮に任じられたときに挨拶には訪れ、その後も何度か来ている。しかし、最初の挨拶だけは受けて貰えたものの、それ以降は忙しいだとか頭が痛いだとか何かと理由をつけては門前払いをされていた。
 ソナは特にそれを根に持ってはいない。もちろん、面白いはずもないけれど、王の母后という立場からすれば、常民(サンミン)にすぎない両班でさえないソナを大妃が快く思えないのも当然だと思えたからだ。
 かといって、大人しく引き下がっているわけにもいかない。それでは、いつまで経っても、ソナは王妃どころか側室にもなれない。
 そこで、ソナは一計を案じた。回りくどいやり方では、この姑(むろん、大妃自身はソナを嫁だとは認めてもいないだろうが)を落とすことはできない。正攻法で行くよりは、当たって砕けろ式、つまり、ソナの方も捨て身でかからねばならないということだ。
 が、仮にも相手は王の生母、大妃である。いきなり土足で大妃殿に乗り込んでいって啖呵を切るわけにはいかない。どころか、そんなことをしたら、ソナの後宮での生命も終わるだろう。
 いかにハンがソナを寵愛しようが、大妃に対して無礼を働いた罪は庇いきれるものではないし、第一、ハン自身がソナを許さない可能性もある。その点、ハンは良人として頼りないこと、この上なかった。
 下世話な話にはなるけれど、よく世間一般では、一人息子は母親に頭が上がらないという。まさに、今の王室―国王とその母大妃がそのとおりの母子関係であった。ハンは上に何とかがつくほどの孝行息子で、二十五歳になった今でも、大妃の言いなりである。
 それについては、初めて大殿の寝所に伺候した夜、ハン自身から聞かされて知った。
―実は、そなたを側室ではなく特別尚宮としたのは母上の意向なのだ。
 と、打ち明け、あまつさえ、
―だが、母上もこれで大分譲歩して下さったたのだぞ。最初はそなたを後宮とすることすら認められなかった。私がソナになら世継ぎを生ませることができるだろうと申し上げて、やっと認めて下されたのだ。
 いつまでも中途半端な身分のまま捨て置かれているソナとしては歯痒いことを言ってくれた。
 つまり、国王は母親に頭が上がらない。なのに、王の再婚を強く望む大妃が勧める多くの縁談をハンが拒み続けているのは奇蹟といっても良かった。他のことであれば、母の意見に逆らったことのないハンは新しい中殿を迎えるという一点についてだけはけして譲らない。
 それはハンの心にソナをいずれは王妃に立てるという強い意思があるからに他ならない。だが、ソナは思っていた。
―王の寵愛は永遠ではない。
 何もハンの真心を疑っているわけではない。王にしろ、常民にしろ、身分の上下に関わりなく、男という生きものはおしなべて心がうつろうものだ。
 いや、それは何も男だけでなく女も同様だろう。人の気持ちに永遠はなく、それを縛り付けることもできない。
 そして、寵愛が尽きた時、王は男ではなく、ただの一人の王に戻る。そのときのために、今、ソナがしなければならないことは、王の寵愛を繋ぎ止める努力だけではない。
 寵愛を失った後、いかに後宮で己れの立場を守り続けるか、だ。そのためにも、ハンに言われずとも、王の子を産むことは今後の最優先事項でもあった。
 先日の妓房での烈しい営みの後、ソナには一抹の期待があった。あれだけ烈しく愛されたのだ、もしやという淡い希望が芽生えていたのたけれど、残念なことに儚く潰えた。つい三日前に月事が来てしまった。
 ハンは好色ではないし、側室の数も多くない。しかもソナと出逢うまでは、その三人の側室たちとも夜を過ごすことはなくなっていた。それでも、亡くなった王妃も含めて複数の女と関係しても、その中の誰一人として懐妊することはなかった。
 考えたくないことではあるが、ハン自身の言うように、子どものできにくい体質であるとも考えられた。王に愛された女が王の子を産めなかったというのは致命的である。たとえ寵愛を失っても王の御子の生母であれば、それなりの立場と待遇を生涯約束される。
 寵愛を失い、子にも恵まれなかった側室の末路ほど惨めなものはない。後宮の片隅で誰からも忘れ去られ、日陰の身、王室の厄介者として生涯を過ごすのだ。
 が、子が授かり物だというのもまた正しい理屈であり真理であった。子ができなかった場合、早い中に手を打たねばならない。そのときこそ、日頃から?ソナは他の女のようにねだり事をしたことがない?と感心するハンに頼み込まねばならない。
 ハンの比較的近しい親族、つまり王族の中からまだ幼い王子を養子に迎え、母親として育てるのだ。迎える子はあくまでも王の血筋に近く、また素直でなければならない。いずれは、その育てた王子を次の王に据えることもできるだろう。
 だが、一介の特別尚宮が王族の子どもを養子として迎えられるはずがない。やはり、その前にせめて側室の位階を得なければ。更にいずれは王妃にならなければ、育てた子を世子にするのも難しい。
 ソナの頭は今、目まぐるしく動いていた。側室になるための突破口はまず大妃を説得することだ。しかし、老獪な大妃はソナのような小娘が太刀打ちできる相手ではないし、甘言で懐柔できるような甘い女ではない。
 いつものように大妃殿の前に来ると、扉が開いて大妃付きの尚宮が近寄ってくる。
「大妃さまはただ今、頭痛がすると横になってお寝みにございます」