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相思花~王の涙~ 【後編】

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 ソナは涙に曇った眼で、物言わぬハンを見つめた。頭を強く打ったと聞いたけれど、外傷らしいものは何もなく、ただ眠っているかのような安らかな死に顔であったことがせめてもの救いであった。
―殿下、殿下は最後まで約束を守って下さろうとしたのですね。
 ソナは震える手でハンの髪に頬に触れた。
 恐らくは狂い咲きの季節を間違えて咲いた百合だったのだろう。その百合を都で帰りを待ちわびるソナへの手土産にしようとしたのに違いない。それが生命取りになるなんて。
 安らかな死に顔ではあったが、何故かハンの頬には泣いたような痕跡―涙の跡が残っていた。ヤン内官に訊ねようとしたけれど、彼もまた突然の王の死に戸惑い衝撃を受けているのは判っていた。今になって涙の理由を訊ねたからとて、ハンが生き返るわけでもない。
―ソナ、一刻も早くそなたに逢いたい。
 視察先から届いたハンの手紙の一文がハンの声と重なった。
―死んでまで涙を流さなければならないどんな理由があなたにあったというの? 何があなたをそこまで苦しめたの―。
 ソナはハンの頬にくっきりと残った涙の跡を撫でながら、自分も号泣した。
 その時、ソナは決めていたのだ。ハンの葬儀が終わり次第、出宮することを。その決意は後宮の責任者である提調尚宮とシン尚宮、大妃にだけ伝えられた。
 昨日、最後に大妃殿に挨拶に出向いた時、大妃はすぐに逢ってくれた。
―どうしてもゆくのか?
 ハンの死から、あれほど若々しい美貌を誇っていた大妃は一晩で実年齢よりも老けたように見える。今なお泣き腫らした眼が痛々しかった。
 どこか名残惜しげな口調は引き止めるかのようにさえ感じられた。
 ソナは深々と頭を下げた。
―お約束を守ることができず、申し訳ございませんでした。
 大妃はソナの意を正しく汲んでくれたようだ。うっすらと笑むと、こんなことを言った。
―今だから申すが、主上は子のできにくい身体だと実は御医の診立があったのだ。幼いときに煩った熱病のせいで、子種がないか、仮にあったとしても極めて薄いのだと早い中から言われておっての。仮にも国王に子が成せぬなどと知れれば玉座争いにもなりかねぬゆえ、極秘事項として知る者は私と御医だけにとどめていた。私の兄である領議政さえ知らぬ国家最高の機密よ。
 ソナはその時、思わず問わずにはいられなかった。
―殿下はこのことをご存じだったのですか?
 大妃の応えはソナが予想していたのとほぼ同じ内容だった。
―伝えてはおらぬ。母親が我が子に、そなたは子を授からぬ宿命であると面と向かって伝え切れるものか。さりながら、殿下は薄々はお気づきであったのではないかと私は思うている。
―そう、でしたか。
 そのことに、ソナは今更ながら思い当たる節があった。かつてハンがソナに自分は何人かの女と関係を持っても子に恵まれなかったと打ち明けた―あの時、ハンは自分が子には恵まれないかもしれないと漠然と予感していたのではないか。
 それでも、ハンは最後まで諦めてはいなかった。ソナに幾度も息子を生んでくれと言っていた。
 何という哀しい壮絶な宿命を背負い、生きていた男なのだろう、自分の愛した男は、イ・ハンという王は。それでも、いつも笑顔を絶やさず下の者にもけして声を荒げたりせず、民にも心を寄せていた。あのまま長生きをしていたら、きっと間違いなく後世に語り継がれる聖君と呼ばれた偉大な王として歴史に名を残したに違いない。
 大妃は弱々しい笑みを浮かべた。
―今となっては、そなたを後宮にとどめ起きたいという想いもあるが、それは叶わぬことだ。ソナよ、息子の生涯でただ一人愛したそなたには幸せになって欲しい。次こそは生涯連れ添える男とめぐり逢い、たくさんの子をなすが良い。そなたが幸せなることが主上の望みであろうから。
―ありがとうございます、大妃さま。
 ソナは大妃に向かって最後の拝礼を行った。大妃はハンの語ったとおりの女性であり、けして道理の判らぬ人ではなかった。また、最後まで口にはしなかったけれど、早くからソナを?嫁?として認めていてくれたのだと判った。
 ソナは長い物想いから我が身を解き放った。チョゴリの前紐に結びつけたノリゲにそっと触れる。ハンと初めて結ばれた夜、彼から贈られた葡萄石(プレナイト)のノリゲだ。
 ハンと一緒に過ごした日々も、いつもこれを肌身離さず身につけていた。これからは彼を偲ぶよすがになる。
 今、ソナが纏うのは粗末な木綿のチマチョゴリである。これは入宮の際、身に付けていた衣服とまったく同じものだ。ただ一つ違うのは人妻になった証として髪を結い上げて纏めていることだけ。
 彼女は何もかもすべてこの宮殿に残して去ってゆくが、彼女がイ・ハンという男に愛され、彼女もまた同じだけの愛を返し、二人が烈しく求め合った事実は変わらない。
 もう一度だけ最後に背後を振り返った。
 宮殿の偉容が迫っている。ハンと二人で最後に見た夕陽にきらめいていた王宮が脳裡に甦った。
―殿下、心からお慕い申し上げておりました。
 ソナの耳奥でハンの真摯な声音がこだまする。
―私はどこにいても、ソナの幸せを祈っておる。
 あれはハンが南園の池のほとりで二人だけの燈籠祭を開いてくれた夜のことだった。あの科白があたかも別離の言葉のように聞こえ、ソナは哀しくて泣いた。ソナの涙に弱いハンは狼狽え、一生懸命にソナの涙をぬぐってくれた。
 今から思えば、ハンは既にあの頃、自分をやがて見舞うことになる哀しい宿命を予感していたのだろうか。
 ハンと過ごしたのはわずかな間だったけれど、その間、幾度、ソナの流した涙を拭いてくれたかしれない。本当に、生まれながらの王とは思えないほど優しい男だった。いや、王という孤独な立場で生きてきたからこそ、優しい人だったのか。
 けれど、ハンはもういない。ソナの涙をぬぐってくれる男はいなくなってしまった。
―殿下、私の心もいつもあなたと一緒にあります。
 ソナは心の中でハンに呼びかける。
 空を振り仰ぐと、深まった秋の薄蒼い空がひろがっていた。それでも、太陽は頭上に輝いている。ソナはその時、確かに輝く太陽の向こうにハンの優しい笑顔を見たのだった。
 女として生まれて初めての恋をして花ひらいた至福の瞬間のすべてがここにあった。その愛おしい日々を王宮に残して、ソナは去る。
 いつまでも覚めない夢はない。夢は終わったのだ。
 ソナは固く閉ざされた宮殿の門を見つめ、そっと背を向けた。


 シン・ソナは朝鮮王朝時代後期に生きた。妖婦として歴史に名を残したが、誰を殺したというわけでもない。なのに、何故、?稀代の悪女?と称されたのか?
 やはり、国を傾ける―一国の国王の心を彼に何もかも見えなくさせるほど溺れさせ虜にしたことが最たる理由かもしれない。結局、永宗は彼女を愛し過ぎたがために、彼女に溺れ生命を縮めたのだから。
 けれど、彼女ほどまた、愛に生き、愛ゆえに哀しんだ妖婦もいないのではないだろうか。