相思花~王の涙~ 【後編】
ずっとこのままでいたかったが、晩秋の夕風は冷たい。これ以上、弱ったハンの身体に負担をかけたくなくて、ソナはそれからほどなくハンを優しく揺り起こした。
更に数日を経た。その夜、実に十余日ぶりに、国王は愛妃の殿舎を訪れた。シン尚宮も女官も久方ぶりの二人の逢瀬に、早々と気を利かして下がった。そんな気遣いが嬉しくも恥ずかしくもあるソナだった。
用意された小卓の上には様々な酒肴が並ぶ。ソナの酌が嬉しいらしく、ハンは終始上機嫌で幾度も盃を干した。
ハンは元々、酒豪といえるほどではなく、むしろ酒には弱い質のようだ。いつも少し飲んだだけで、白い膚がうっすらと桜色に染まるほどで、酒に強くないのはソナも同じだ。
だから、酒の支度がしてあっても、二人で過ごす夜にそこまで飲むことはなかった。
それが今夜に限り、幾度もお代わりするので、ソナは気遣わしげに言った。
「殿下、明日の朝は早いと聞いています。こんなにお過ごしになってはお身体に障るのでは?」
ハンは明日の早朝、宮殿を発ち視察地へ向かうことになっているのだ。何でも治水工事の行程を確認するためだという。病み上がりの王の体調を気遣ってその公務も必要最低限に軽減されていると聞くが、やはり、どうしても外せないものもあるらしい。
が、ハンは事もなげに笑った。
「なに、たいしたことはない。これしきのこと」
口とは裏腹に立ち上がりかけたハンの身体が傾(かし)ぎ、よろけた。既に眦は紅く、身体もうっすらと熱を帯びたように染まっている。
「ご酒はまたお帰りになってから、ゆっくりとお召し上がり下さい」
ソナが心から言うのに、ハンが色っぽい流し目をくれた。
「今の科白は意味深だな。今宵は酒よりはソナを食べた方が良いのか?」
元々が美しい男だけに、酔って眦を染めた様は凄艶といえるほどに男の色香が滴る。ソナは既に幾度も彼に抱かれたというのに、その艶っぽい視線に射貫かれただけで、身体の芯がゾクリと震える。
到底まともに視線を合わせられず、狼狽え、眼を背けた。
「まさか、何をおっしゃっているのか判りません。明日は早いのですから、もう床にお入りなって―」
病み上がりの身体を気遣って純粋に眠るようにと勧めたつもりだったのだけれど。ハンはニヤリと口の端を引き上げた。
「やはり、誘っているのだな」
いきなりその場に押し倒され、ソナは悲鳴を上げた。
ハンがそっと手を伸ばして、男にしてはほっそりとした長い指で頬を撫でてくる。身体の奥にじんわりと焔を灯すようなその仕種に、ソナの頬が瞬時に熱くなり、熱を宿す。
ざわりと妖しく揺らめいたのは心だけではなく、ハンによってさんざん快楽の極みを憶えさせられた身体も同じだった。
長い指は繊細で複雑な動きを繰り返し、ソナを一瞬にして狂わせ、行ったことのない楽園に連れてゆく。ハンに連れられていった果てに見たものは、あるときは光り輝く蝶の舞であったり、春の嵐に舞い狂う花びらであったりした。
今も優男であることは変わらない。宦官であると言われて、微塵の疑いも抱かなかったことを今更ながらに思い出し、クスリと笑みを零す。
「―何を考えているんだ。思い出し笑いなんかして」
ソナは今や覆い被さったハンの腕の中に閉じ込められた形になっていた。普段は少女めいたソナの可憐な面に妖艶な女の表情が浮かび上がる。ハンが感じ入ったように、熱い吐息を洩らした。
「そなたはこれから王に抱かれるのだ。少しは嬉しそうな顔をしてみろ」
ソナが幼い弟を見守る姉のような口調で言う。
「―酔ってらっしゃるのですね。仕方のない方」
淡く笑うと、ハンも挑戦的でいて、ひどく色めいた微笑をその美麗な面に上らせる。
「良かろう、今にそんな余裕などなくなる。思い出し笑いなんかできないほど、そなたを感じさせてやるからな」
反論しようとした言葉はいきなり仕掛けられた貪るような接吻(キス)に飲み込まれた。後はもう夜着の帯を解く音だけが静まり返った寝所に響く。
ハンが自信たっぷりに宣言したとおり、ソナは夜通し王の腕の中で啼かされ続けることになった。
翌朝、ハンはまだ夜の明けきらぬ中に起き出した。むろん傍らで眠るソナも共に起き、ハンが身支度を整えるのを甲斐甲斐しく手伝った。昨夜の中に大殿から視察用の衣装もこちらに運び込まれている。
孔雀の羽のついた帽子を被り、視察用の出で立ちになったハンの顔色はけして悪くはなく、ほんの数日前は気になった喘息の発作も治まっているようである。
ソナはハンの着替えを手伝いながら、愛する良人を見上げた。
「少し前まではお加減も良くなさそうでしたのに、今はお顔の色も以前のようになられ、安心致しました。どうか道中、くれぐれも御身をお労り下さいませ」
と、ふいにハンの漆黒の瞳が悪戯っ子のようにきらめく。ふっとソナの方に顔を近づけ、囁いた。
「私にとってはそなたを抱くのが何よりの妙薬だと申したではないか」
その言葉に、ソナの白い頬が染まった。その頬をつつき、ハンは揶揄するように言う。
「帰ってきたら、あの程度で済むと思うなよ? 昨夜はまだ我慢したんだ」
まだ紅くなったままのソナにハンが笑いかける。丁度、ソナがハンの腰回りで結ぶ紐を結び終わり、形を整えたところで外から遠慮がちに声がかけられた。
「殿下、そろそろご出立の刻限が近づいておりますれば」
「それでは、行ってくる」
ハンはこれから正殿の方へ一度戻らねばならない。国王が愛妾の住まいで夜を過ごし、そのまま公務の視察に出たというのはいかにも外聞が悪いのだ。
外側から女官が両開きの扉を開け、ハンが出てゆく。ソナも後ろから室を出て、見送りに立った。
階を降り、庭を大股で去ってゆく王はもう振り向きもしない。ヤン内官初め、数人の内官がそれに従った。ソナは庭に降りて、遠ざかろうとする王の後ろ姿をなすすべもなく見送った。
庭にはまだ薄闇が立ちこめている。それもそのはずで、空はまだ夜の名残を残して群青色に染まり、細い月が白っぽく空を飾っていた。弱々しい月の光が沈黙の支配する庭を白々と染めている。
ソナは一瞬、眼を疑った。次第に小さくなるハンの背が白っぽい月光に透けて消えてしまいそうに見えたのだ。
今、呼び止めなければ、二度と愛しい男が帰ってこないのではないか、そんな気に急かされた。
「―殿下」
ソナは衝動的に叫んだ。
ハンには到底届かないと思ったのに、彼が振り向いた。首だけねじ曲げるようにして振り向いた王の許に、ソナは小走りに走っていった。
「何だ?」
ハンはちゃんとソナの方に向き直ってくれた。彼らしい優しさに、胸が熱くなった。込み上げてきた彼への想いと愛しさに何も言えなくなってしまう。
だが、言葉にはせずとも、彼はちゃんと察してくれた。
「そのように淋しそうな表情をするな、すぐに戻る」
走ってまだ荒い呼吸をするソナを抱き寄せ、額に軽い口づけを落とした。
今度こそ、王は想いを振りきるかのように踵を返し遠ざかってゆく。
―行ってしまった。
ソナは茫然とその場に立ち尽くした。身体中の力が一挙に抜け出てしまったかのようだ。その場に座り込みたいのを堪え、シン尚宮に支えられるようにして殿舎に戻った。
作品名:相思花~王の涙~ 【後編】 作家名:東 めぐみ