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相思花~王の涙~ 【後編】

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 二日後の夕刻、ソナは新しい刺繍に取りかかったばかりのところだった。昨日もまたハンはソナの殿舎を訪れ、しばらく茶菓と雑談を愉しんで帰っていった。まだ褥は共にできないけれど、それは致し方ない。何より大切なのはハンの健康だ。
 その日、王の訪れはまだなかった。大抵は先触れが来てからの訪問になるため、シン尚宮が
「殿下がお越しにございます」
 と、告げたときには本当に愕いた。
「殿下がお見えなの?」
 慌てて刺しかけの刺繍も放り出し、立ち上がった。庭先までハンを出迎えにいく。国王の宮殿内の移動にはあまたの内官や尚宮・女官を引き連れるものだが、ハンはいつも最低限の伴しか連れない。
 が、今日はいつもお側去らずのヤン内官の姿も見当たらなかった。
「殿下、いかがなさったのですか?」
 ソナが訝しげに問うと、ハンが儚げな微笑を浮かべた。そのあまりの淋しげな笑みに、ソナは胸をつかれた。
「そなたの顔を急に見たくなった」
 嬉しいはずの言葉が何故か今日ばかりは心に胸騒ぎを呼び起こす。
「そなたと行きたい場所がある」
 ハンに促され、ソナは頷いた。ソナの住まう殿舎から石畳の通路を歩いてゆく。途中で国王とその寵姫とすれ違った廷臣や女官たちは慌てて脇により頭を下げる。ソナもまたその度に軽く頭を下げてやり過ごしたが、いつもなら鷹揚に笑顔を見せるハンは儀礼的に頷くだけだ。
 何かあまり余裕がない様子のハンに、ソナの不安はますますかきたてられる。どこに連れていくのかと思っていたら、結局、正殿の正面まで来た。
 ハンが今日、初めてソナを真正面から見た。
「ソナ、おいで」
 ハンは正殿の正面に佇み、手招きする。側に寄ったソナの肩を抱き寄せ、ソナは微笑んだ。
「私がここでそなたに誓ったことを憶えているか?」
「もちろんです」
 まだハンがこの国の王だと知る前、やはりこの場所でハンと居並んで、ここからの眺めを見た。ハンはあの時、確かに誓ったのだ。
―二人でこの場所に来るまでには、色々なことがあるだろう。そなたにとっては辛いことの多い茨の道かもしれない。でも、私を信じて付いてきて欲しいんだ。繰り返して言う。私の妻はシン・ソナ。そなたしかおらぬ。
―この日、ここから見た眺めを忘れないでくれ、いつか私たちが二人でこの場所に立つその日まで。
 ハンを国王だと知らなかったソナには、彼の真意が判らなかった。けれど、今ならば判る。
 ハンはあの日、この場所でいずれソナを王妃とすると誓ったのだ。真の意味で国王の妻は正妻たる王妃しかいない。だからこそのハンの誓いであった。
 あれからまだ数ヶ月しか経っていないが、ソナの身辺には劇的な変化があった。恋人が内官ではなく国王だと知り、更にはその寵愛を受け、承恩尚宮から正式な側室へと、その人生の階段を一歩一歩上っていった。
 この数ヶ月だけを振り返っても、ソナにとっては本当に茨の道であった。これから彼女が目指すのは更にはるか高みの座、中殿というこの国の女性としては最高の場所だ。
 これから先の道は茨どころではない、ソナ自身も予想していないような大きな試練が待ち受けているに違いない。 
 だが、最近、ソナは思うのだ。
 自分が目指していたのは本当に王妃の座だったのだろうか。ハンの側で様々な経験を重ねることによって、ソナはハンへの自身の想いを再確認したような気がする。
 いや、もし、どちらかを選べと言われれば、間違いなく自分は野心ではなくハンへの愛を選ぶだろう。ハンへの愛に殉じるのであれば、この人生に悔いはない。
 と、想いに耽るソナの耳をハンの声が打った。
「私が何を考えているか判る?」
 ソナは大きな瞳を瞠った。
「―いいえ」
 ハンの綺麗な面に微笑がひろがった。
「私は今、十年先にそなたとここに立ったときのことを思い描いている」
「十年先、にございますか?」
 思わず問い返すと、ハンが?そうだ?と頷いた。ハンがソナの手を握りしめ、眼を閉じるる。
「ソナも眼を瞑ってごらん」
 言われるままに眼を閉じた。更にハンの声は続く。
「良いか、瞼に思い描くんだ。私たちは今、王と王妃の盛装をしてここに立った。眼前には百官たちも威儀を正して居並んでいる。そこで私はそなたに告げる。シン・ソナを生涯の我が伴侶とし、正妃とすると」
 短い沈黙の後、ハンが訊ねる。
「どうだ? ちゃんと十年後の私たちが見えているか?」
「―はい。見えます。殿下がとても優しい笑顔で私をご覧になって、私も嬉しくて殿下のお顔を笑って拝見しています」
 その瞬間、ソナには見え、聞こえた。正殿前に居並ぶ百官たち、王と王妃の儀式用の正装をした自分たちの姿が。
―賢明なる王の側には必ず王を支える王妃があり、今、この貞淑にして賢明なるシン・ソナを立て王妃となす。王と王妃は互いに支え合い、幾久しくこの国の民のために力を尽くすものとし―。
 読み上げられる詔の声、
―千歳、万歳、千々歳。
 大臣たちの錫を掲げ持ち新しい中殿誕生をことほぐ声。
「私も聞こえるよ、ソナ。私たちを祝福してくれる民の声が」
 眼を開いたソナはハッとした。ハンの頬をひと筋の涙が糸を引いて流れ落ちていた。
「―殿下」
 呼びかけると、ハンも眼を開いた。
「ああ、美しいな」
 折しも落日が西の空の端を黄金色に染める時間になろうとしていた。ハンの好きだという時間帯だ。巨大な夕陽が広大な宮殿の数々の殿舎を黄金色に染め上げている。
 正殿の瓦が金の波のように見えた。最初にハンに連れられてここで見たときも思ったが、天帝の住まうという天界の宮殿も恐らくこのような神々しい黄金でできている御殿に違いない。
「ソナ、そなたの膝で休ませてくれ」
 ハンが言い、ソナは座った。ハンはソナの膝に頭を乗せて眼を閉じる。
「疲れたから、少し眠るよ」
 ほどなく寝息が聞こえ始めた。何気なくハンの寝顔を見たソナは愕然とした。ハンの白皙には血の気は殆どなく、蝋のように透き通っている。痩せたのか、顎から頬にかけての肉が削げおち、随分と憔悴の色が濃いように見える。
 時折、呼吸が苦しげにゼーゼーと速くなった。今もまだ喘息の発作は治まっていないのだ。
「ハン。お願いだから、無理はしないで」
 ソナはハンの髪にそっと触れ、撫でた。ハンを名前で呼ぶのは彼が国王だと知って以来、初めてのことだ。
 ソナはこのまま時間が止まってしまえば良いのにと思った。あの天下の名妓と謳われた黄真伊(ファン・ジニ)が詩で謳ったように、縫い針と糸で今という時間を縫い止めておけるものならばと願わずにはいられなかった。
 ねぐらに帰るのか、鳥が数羽、群れをなして飛んでゆく。
 最早、我が身の心は明らかだった。
 私はイ・ハンというただの男を愛しただけ。
 ハンが望むなら、王妃になる努力はむろんする。けれど、ソナ自身はもう中殿の座など、どうでも良い。ずっと彼の側にいられるなら、何も他に望むことはない。このまま穏やかに刻が過ぎていってくれさえすれば、何も要らない。
 そう、そして、一つだけ我が儘を言うなら、息子でも娘でも良いから、いつかハンに似た可愛い子を一人授かることができるなら。