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相思花~王の涙~ 【後編】

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「知らせてくれて、ありがとう。このままでは心配のあまり、針で指ばかり刺してしまうから、刺繍が血だらけになるところだったの」
 その言葉で、シム尚宮が顔色を変えた。
「まあ、お手が」
 ソナの指先はすべて包帯が巻いてあった。いちいち女官を呼んで手当して貰うのも面倒だったので、手当は自分でした。そのときにハンと初めて出逢った際、彼から貰った清国渡りの塗り薬を久しぶりに取り出した。
 もう水汲みでもないソナは雑用などすることはない。以前は荒れていた手も今は苦労知らずの白い綺麗な手になった。なので、ハンから貰った塗り薬も使うことはなく過ぎていたのだけれど、久しぶりに見た懐かしい小さな器を見て、ソナは泣いてしまった。
 ハンのくれた薬を指に塗りながら、たくさんの涙を流した。薬は相変わらず薄荷の爽やかな香りがして、大好きなハンと同じ匂いだ。
―殿下、殿下。どうしているのですか? ソナは殿下にとてもお逢いしたいです。
 もしや噂が真実で、このままハンが亡くなってしまったら、二度と逢えない。
 そう思うと、また涙が溢れてた。自分はこんなにもハンを好きだったのだと知り、今更ながらに愕いた。
 ソナが包帯だらけの指を見て、恥ずかしげに笑う。
「見苦しいでしょう。自分でも信じられないわ。刺繍は得意な方なのに」
 シム尚宮が瞳を潤ませた。
「淑媛さまはそこまで殿下の御事をお慕いになっていらっしゃるのですね」
 ソナが頬を染めた。
「今頃、気付くなんて遅いわよね。でも、最近、やっと私にとって殿下がどれだけ大切なな方が判ったような気がするの」
 もう、中殿の座なんて、どうでも良いように思える。ハンの側にずっと居られさえすれば、何も望むことはないとさえ今は思えた。
―ああ、早く殿下にお逢いしたい。
 ソナは心から願った。女主人の心を見透かしたかのように、シム尚宮が微笑んだ。
「明日には御前会議にもお出るになそうですから、きっと、こちらにも何かお知らせがあるでしょう」
「そうね」
 ソナは笑顔で言い、いそいそと刺繍に取りかかった。現金なもので、ハンが元気になったと聞くやいなや、針も自在に動くようになった。ソナはそれからの時間は刺繍に集中して過ごした。
   
 翌朝、待ちに待った瞬間がやって来た。既に大殿からハンが来るとは連絡が来ていたけれど、シム尚宮がいつになく喜色も露わにいそいそと告げにくる。
「国王殿下がお越しになりました」
 その声が終わらない中に、ソナは居室を飛び出し、庭へと続く階を駆け下りた。後に残されたシン尚宮は眼を丸くし、慌てて女主人の後を追う。
「殿下!」
 ソナは庭先でハンを出迎えた。丁度到着したばかりの王はソナを見ると、笑顔で両手をひろげる。ソナは皆の前であることも忘れ、その中に飛び込んだ。
「ご回復なさったのですね?」
 ハンが苦笑いの顔で言う。
「皆が大袈裟に言うから、そなたにも心配をかけた。なに、たいしたことはなかったのだ」
 ソナはハンを縋るように見上げた。
「もうご無理はなさらないで下さいね?」
 ハンは改めてソナの足許を見た。
「ソナ、そんなにも私のことを心配してくれたのか?」
 ハンの視線に促されるようにソナも自分の足許を見やり、紅くなった。
「いやだ。私ったら」
 ハンが来たという知らせを聞くなり飛び出し、靴も履かず足袋のまま庭に出てしまったのである。恥ずかしさに頬に朱を散らしたソナを見て、ハンは優しいまなざしになった。
「嬉しいよ、そなたが私をそんなにも案じてくれたなんて」
 二人は話しながらソナの殿舎へと入った。ハンが座椅子に座る。ソナはシン尚宮が用意してきた小卓から茶器を捧げ持ち、湯飲みに茶を淹れた。
 菓子器には色とりどりの菓子が盛られ、ソナは淹れたばかりの茶をハンの前にそっと置いた。
「しばらくご無沙汰だったからな、そなたが食べさせてくれ」
 子どものように甘えて見せるハンに、ソナは笑いながら菓子を一つ摘んで彼の口に入れる。シン尚宮は横を向いて、この親密すぎる光景は見ないようにしていた。
「もう一つ」
 またハンが口を開け、ソナが笑う。
「仕方のない方」
 そう言いつつも、ハンがこうして甘えてくれるのが嬉しくてならないソナだ。その時、ハンがめざとくソナの指先に巻いてある包帯に気付いた。
「これは、どうしたのだ? 怪我をしたのか」
 その問いにソナが躊躇っていると、これは横からシム尚宮が控えめに言上した。
「畏れながら、淑媛さまは殿下のお具合がよろしくない間中、心配ばかりされておいででした。刺繍をされていても、殿下の御事ばかりお考えになるあまり、針で指を突かれてしまい―」
 ソナがたしなめた。
「シム尚宮、余計なことを言わないで」
「申し訳ございません」
 シム尚宮は一礼して黙った。
 が、ハンの方は嬉しげに笑み崩れている。
「ソナが私のことばかり考えていたというのだな?」
 ソナは紅くなりながら言った。
「シム尚宮は大袈裟なのです」
「だが、その指先はどうした? それが何よりの証ではないのか」
 ソナがうつむくと、ハンの温かな声が聞こえた。
「ソナ」
 ハンが両手をひろげている。
「ここにおいで」
 手招きされ、ソナは躊躇いながらもハンの側に行った。ハンはソナを楽々と膝に乗せ、その艶やかな黒髪を愛おしげに撫でた。
 シム尚宮が気を利かせて、室を静かに出ていった。
「こんなにも誰かを愛することがあるなぞ、私は今まで知らなかった」
 ハンはソナを背後から抱きしめて、その黒髪に顎を押し当てた。ハンの匂い―あの薬と同じ香りが彼から漂ってくる。
「私もです、殿下。この指先の傷に殿下に頂いた薬を塗りながら、ずっと殿下にお逢いしたいと考えていました。何か、おかしいようなのですが、ずっと考えるのは殿下のことばかりで」
「私もだ。静養していても、考えたのはソナのことばかりだった。今、何をしているのか、何を考えているのか。そなたの面影ばかりがちらついて仕方なかったよ」
「お風邪だったとお聞きしましたが」
 やはり、前夜に池辺で冷たい夜風に当たったのが良くなかったのだろう。ソナが心配げに言うのに、ハンは安心させるように明るい声音で言った。
「私は子どもの頃から喘息の持病があるんだ。ここのところはあまり発作も起きていなかったけど、久しぶりに出てね。憶えている限り、五年ぶりかもしれない。それゆえ、母上(オバママ)初め皆が余計に騒ぎ立てたんだよ。そなたが心配することはない」
「そんな―」
 ハンに喘息があっただなんて、知らなかった。蒼褪めるソナに、ハンは破顔した。
「そんな心配そうな表情をしないでくれ。私にはそなたの笑顔が御医の出す薬より何より効くのだから」
 そう言われては沈んでいる顔ばかり見せられず、ソナは無理に微笑んだ。
 その日はふた刻ほど共にいて、ハンは大殿に帰った。当然ながら、夜のお召しもない。それでも、ソナは三日ぶりにハンに逢えて、幸せな気持ちで眠りについたのだった。