小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

相思花~王の涙~ 【後編】

INDEX|15ページ/22ページ|

次のページ前のページ
 

 領議政の息の掛かった女官は常に各殿舎に潜ませている。それらの女官から定期的に情報を受け取った彼は今朝、興味深い話を仕入れた。それは王の側室である李昭媛とシン淑媛が南園の池のほとりで烈しく言い争った挙げ句、殴り合いまでしていた、というものだった。
 それを大妃に告げたのは妖婦シン淑媛の悪逆非道ぶりをあげつらう意味だったのだが―。どういう心境の変化があったのか、大妃は以前ほどシン淑媛に悪印象を抱いてはいないらしい。
 大妃が領議政に感情の読み取れぬ眼を向けた。
「兄上、後宮で生きてゆくということは自分が生き残るか、相手が死ぬか。つまりはそういうことなのです。この私だとて、はるか昔の若い頃には、先王さまの寵愛を受けた女の一人や二人、殴りつけてやりたいと思ったことがあります」
 領議政は無言だ。大妃は構わず続けた。
「ただ、私は中殿という座があり、それが私自身の楯となり守ってくれた。あのシン淑媛にはそれがない。あの者が生き残るには、結局、主上のご寵愛しか頼るものはない。されど、あの者はその私が易々と手にしていた高みの座へといずれは自力で這い上ってゆくのではないか、私はそんな気がしてならないのですよ」
 兄上と、大妃がほんの気まぐれを思いついたように言った。
「どうせ養女にするなら、可能性のある者に賭けてみてはいかがです?」
 領議政の眉が動いた。
「大妃さまはあの妖婦を養女にせよ、と?」
 大妃が微笑んだ。
「もちろん、それは兄上がお決めになることです。私は一つの可能性を口にしたにすぎませぬから」
 領議政は腕組みをして唸った。
「どうも私はあの小娘は虫が好きませぬ。虫も殺さぬ可愛い顔をしていながら、いちいちやることが小賢しい。確かに殿下のご寵愛は今やあの娘だけにあり、シン淑媛がこれから王子を生む可能性は少なくはないでしょう。しかし、あの妖婦が我々の意のままに動くとは思えません。いずれ自らが生んだ王子を操り、自分が権力を握るのは判っています。養女として味方に引き入れたとて、我らにさして利があるとは思えませんな」
「そうですか」
 大妃はあっさりと頷き、二度と同じ話はしなかった。それから他愛のない話を幾つかして辞去する間際、領議政はふと言った。
「それにしても、大妃さまはわずかな間に、随分とあのシン淑媛を買うようになっておられたのですね。私にはそこまで大妃さまが肩入れされる理由がとんと判りませぬ」
 大妃はそれについては何も言わず、静かに笑っているだけだった―。

 伝え切れなかった気持ち

 十月もそろそろ終わりに近づいたある夜、珍しく王からお召しはなかった。が、代わりにハンの信頼厚い内官が寄越されて、
―南園の池までお越し下るようにとの王命にございます。
 と、伝えてきた。
 ソナは訝しく思いながらも言われたとおり、シム尚宮と二人の女官を連れて南園の池へと向かった。先導の女官が雪洞を掲げ、足許を照らしながら進む。少し歩いてやっと池へと続く小道を辿ってきた時、普段は滅多と愕きを露わにせぬシム尚宮が声を上げた。
「淑媛さま、あれは何にございましょう?」
 ソナも少し前に気付いていた。
 池の方角がいつになく不自然に明るいのだ。ソナはシム尚宮と顔を見合わせた。
「とにかく急ごう」
 チマの裾を心もち絡げ、急ぎ足になる。やがて小道から逸れ、池へと近づいた主従は一様に溜息を洩らした。
「これは」
 息を呑むシン尚宮の前で、ソナも感嘆の呟きを落とす。
「綺麗だわ」
 池の周囲に棒が立てられ、綱が張り巡らされている。その綱からはあまたの燈籠が垂れ下がり、そのすべてに灯りが点っている。漆黒の闇の中、その無数の燈籠の灯りがキラキラと揺れ瞬いているのが幻想的で、その美しい眺めはこの世のものとは思えないほどだ。
 ひときわ煌々と輝く燈籠の下に、その人はいた。蒼い龍袍を着て、いつもと変わらない姿で佇んでいるその姿に何故か涙が溢れる。
 ソナは自然に走り出していた。駆けてきたソナを認め、ハンが微笑んで両手をひろげるる。ソナは最愛の男の腕の中に飛び込んだ。いつものように、ハンが力強く抱きしめてくれるのがこんなにも嬉しい。
 知らなかった。この方の腕の中がこんなにも安らげる場所だったなんて。
 その瞬間、ソナは心の底から思った。
 何故、自分は大それた野心などを抱いたのだろう? それはひとえにハンの、愛する男の傍にいたいからだと思っていたけれど、所詮は身の程知らずに持ってしまった野望の言い訳にすぎなかった。
 身分とは、立場とは、そして、この後宮とはかくも怖ろしい場所なのか。ただ一人の男を純粋に愛し続けることさえ叶わなくなるほどの、一途な愛を貫くはずだった者の眼を曇らせるほどに。
 私にはハンさえ居てくれれば良い。他の何も要らない。そのことを今すぐにでも伝えたいと思ったが、溢れてくる想いがあまりに強すぎて、言葉にならず喋れない。
「殿下」
「どうした、何を泣いている?」
 顔を上げたソナの頬をつたう涙をハンが人差し指でぬぐった。ハンへの想いはやはり深く烈しすぎて言い表せないが、せめて心にある今の気持ちを素直に告げたいと思った。
 ソナは涙ぐんでハンを見つめた。
「もしかして、これは私のために?」
 ハンが優しい笑顔で頷いた。
「だが、気にせずとも良い。そなたを歓ばせたくて思いついたことではあるが、私自身も見たくて用意したのだ」
 ソナの中で閃くものがあった。
「燈籠祭、ですね?」
 ハンが我が意を得たりと頷いた。
「そのとおり。何故か五ヶ月前にそなたと見た燈籠祭が忘れられなくてな。思い出すと無無性に見てみたくなって、このようなことを思いついてしまった。子どもじみた我が儘だとは承知しているが」
 少し照れたように言うハンに、ソナは眼を輝かせて燈籠を見上げた。
「来年の初夏、また町の燈籠祭に私を連れていって下さいませ」
 だが、ハンは遠い瞳で微笑んだだけだった。
「来年の夏か。まだまだ先だ。―随分と遠い気がする」
 ソナは笑った。
「もう一年もありません。半年と少し先だけの話ですわ」
「そうだな。そなたの申すとおりだ」
 ハンが自分の意見を押し通さないのはいつものことなので、特に不自然には思わなかった。
「ソナ、初めての日のように願い事を書いてみないか?」
「そうですね。名案です」
 ソナも賛成し、ハンは内官のヤン・スンに命じてすぐに用意をさせた。
 長身のハンは手近な燈籠を苦もなく外し、ほどなく内官が運んできた硯に墨をたっぷりと含ませて燈籠の前面に願い事を書き付けた。
―想い人が幸せでいられますように。
               イ・ハン  
 ソナは背が低くて、なかなか燈籠が取れない。ハンが笑いながらソナを子どもにするように抱き上げ持ち上げてくれ、ソナはそれでやっと燈籠を手にすることができた。王と側室の微笑ましい夫婦ぶりをお付きのヤン内官やシム尚宮たちは邪魔しないよう遠巻きに見守っている。
 今度はソナが願い事を書く番だ。
―殿下が聖君となられ、その治世が平らかで長く続きますように。
              シン・ソナ