相思花~王の涙~ 【後編】
「忠告、せいぜいありがたく受け取っておこう。だが、そなたも我が世の春がいつまでも続くと思うな。後宮に美しい女官など掃いて棄てるほどもいる。また、近く朝鮮中の両班の子女に禁婚令が発布されると聞いた。いよいよ国婚の準備に入るというではないか。お前こそ、新しい中殿さまが決まったら、その生意気な口を永遠に閉じねばならぬであろうな」
昭媛は断じると、ツンと顎を反らして去っていった。お付きの者たちがその後を追う。
丁度同じ頃、南園の池へと続く小道をハンは急ぎ足で歩いていた。お伴はお気に入りの内官ヤン・スンだけだ。この若い内官は国王と同年で、スンが内官見習いとして入宮してからというもの、何故か気が合い、長年の中には主従というよりは気心の知れた友人のような関係になっていた。
緊急の御前会議が終わり、ハンはその脚で真っすぐにソナの殿舎に赴いた。しかし、想い人はシム尚宮を連れて南園に行ったと出迎えた女官が恐縮して言上した。ハンはソナの後を追いかけるように南園にやって来たのである。
王が急に歩みを止めたため、内官は愕いて王を窺った。が、いつもなら臣下の顔色にも気を配るはずの王はスンの戸惑いに気付いた風もなく前方を示す。
「スン、あれは?」
眼の良いスンは眼を凝らして前を見つめていたかと思うと、恭しく応えた。
「李昭媛さまとシン淑媛さまです」
ハンの眉がかすかに寄った。
「何ゆえ、あの二人がこのような場所で一緒にいるのだ?」
内官は言いにくそうに続けた。
「どうも、あまり良い雰囲気ではなそうです。何か言い合いをなさっておられるようにお見受け致しますが」
気の置けない友人でもある内官は困惑した表情を浮かべている。
「どうしますか? あのお二人を止められるのは殿下しかおられませんが」
ハンは溜息をつき、首を振った。
「今、私が出ていっては余計に事態を悪くするばかりだ。スン、考えてもみるがよい。二人の妻が言い争う場へのこのこと現れ、私が何を言えば良い? 気持ちとしてはソナを庇ってやりたいのは山々ではあるが、ソナを庇えば李昭媛の体面に傷を付ける。更に、私がソナだけを寵愛しているとまたソナが悪く言われることになるのだ」
ハンは背を向けた。緊急会議では思ったとおり、新中殿の冊立が主な議題であり、領議政の主張としては
―いつまでも国の母たる中殿の座を空けておくことは民心の不安にも繋がりますゆえ。
と、禁婚令を国中に発布することを王に進言した形になった。
他の廷臣たちもこれに同調する者が続き、わずかに側室の崔淑儀の伯父であるキム兵?判書が領議政に反対したにすぎないが、これは少数派である。
だが、ハンはいつになく強硬な態度で臨み、ついに自らの意をはっきりと示したのだ。
―新しい王妃冊立については予にも考えがある。ゆえに今回は禁婚令を出す必要はない。予は既に二人の王妃に先立たれた。これから迎える三人目の中殿とは互いが老いるまで今度こそ添い遂げたい。従って、三人めの妻は予自らが選んだ者をその座につける。そなたらもそのつもりでいるように。今後、予の妻選びについての一切の意見を口にすることを禁ずる。
その言葉に、廷臣たちは互いに顔を見合わせ、ざわめいた。
―殿下おん自らがお選びになるとは、それはまさか―。
ひそひそ声が囁き交わす中、彼らを代表する形で領議政が再び口を開いた。領議政カン・ガンテクはこの王の血縁上の伯父にも当たる。
―殿下、畏れながら、殿下がお考えのその新しい中殿さまというのはシン淑媛なのですか?
王は領議政の顔を見て笑った。
―さあ? 今、ここでその者の名を明かすことはできぬ。いずれ、そなたにも判るときが来よう、領相(ヨンサン)。
余裕の笑みで構える王に、流石の大物政治家も黙って引き下がるしかなかった。
会議が終わってすぐにソナに逢いたくて堪らず、その殿舎に向かったわけだったのだが―。
ハンは側に控える内官に言うともなしに言った。
「ソナが後宮の頂点にいずれ立てば、女たちの争い事を収め、側室たちをも束ねねばならん。あの程度の諍いが収められぬようでは中殿としての重責には到底堪えられまい。スンよ、この場は見なかったふりをしておこう」
王はまだ戸惑う内官を残し、さっさと背を向けて元来た道を引き返し始めた。
翌日、大妃殿の一室では、領議政羹ガンテクが渋面を隠そうともせず座り込んでいた。
「兄上、何をそうご機嫌斜めなのです?」
美形で知られる羹氏一族の当主だけあり、領議政も既に五十代後半には見えない若々しさだ。若い頃はさぞかし女の熱い視線を集めたに違いない苦み走った男ぶりは、よく見れば若い国王とよく似ている。
領議政は自慢の口ひげをひと撫でした。
「これが機嫌良くいられますか、大妃さま。殿下は寄りにも寄って禁婚令は出さぬと仰せられたのですぞ。殿下が私に真っ向から逆らわれたのは初めてです。恐らくはあの妖婦にまた寝所で何か余計なことを吹き込まれたのでしょう」
大妃がクスクスと笑った。
「さあ、それはどうでしょうか」
領議政は妹にも当たる大妃を恨めしげに見た。
「何がおかしいのですか! これが笑うようなことでしょうか? 現在、後宮に我が羹氏の血を引く娘は一人もおりません。禁婚令が発布された暁には遠縁の娘でも養女として入内させようかと思っていたのですが、これでどうにも打つ手がなくなった。大方はあの女狐がお若い王に泣きついたに違いない」
ますます怒り心頭に駆られているらしい兄に向かい、大妃は小さな息をついた。
「シン淑媛が殿下にそのようなことをねだったとは思えませんが、兄上」
「―」
領議政が眼を見開いた。大妃は小首を傾げる。
「考えてもご覧下さい。既に主上の御意は決まっているも同然。何も余計なことをせずとも、いずれあの女の許にすべてが転がり込んでくるのですよ。わざわざ、つまらぬねだり事をする必要などありません」
そこで、領議政がふと思い出したように言った。
「ところで、大妃さま。その女狐ですが、面白い話を聞きましたぞ」
領議政は更に大妃に顔を近づけ、何やら囁いた。しばらく後、大妃は弾けるように笑っていた。
一方、領議政はしらけた様子で大妃を見ている。
「何か今日の大妃さまはいつもと違われますな。私の申し上げた話がそこまで面白いと?」
大妃はかざした扇の陰でまだ笑いながら言った。
「ですが、兄上。これが笑わずにはいられますか!」
領議政は苦い薬でも無理に飲まされたような顔だ。
「王朝初期の御世に、王の寵愛を笠に着て専横の目立つ寵姫がいたそうです。気に入らぬ者は平気で打ち据え、怪我をさせたこともあった。何でも皆から?暴嬪(ボクビン)?と呼ばれて畏怖されていたとか。まさに、あの妖婦もその暴嬪そのものではありませんか」
大妃は漸く笑いをおさめた。
「さりながら、シン淑媛が一方的に李昭媛を殴りつけたわけではないのでしょう。先に殴ったのは李昭媛であり、シン淑媛はそれに対してやり返しただけ。喧嘩両成敗ですから、シン淑媛だけが悪いわけではない」
「大妃さま」
領議政が愕いたように眼を見開いた。
「あの娘を庇われるのですか?」
作品名:相思花~王の涙~ 【後編】 作家名:東 めぐみ