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相思花~王の涙~ 【後編】

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 言い置き、池に近づく。チマの裾を思いきり捲り上げ、白い脹ら脛を惜しみなく晒す。そろそろと汀から池の中へと続いている石段を降りた。数段めからは水に浸かっているので、その辺りで脚を止めた。
 水に浸した脚がひんやりと心地良い。
 ソナはチマを両手で持ち、子どものように駆け足をしてみせた。パシャパシャと水飛沫(みずしぶき)が跳ね、秋の陽光に眩しく光った。
 胸に結んだ二つの蝶を象ったノリゲがソナの動きに合わせて揺れる。まるで夫婦の蝶が寄り添い戯れ合っているかのようだ。
「シム尚宮もやらない? 気持ちが良いわよ」
 笑いながら叫ぶと、汀で見守る忠実な尚宮は苦笑している。
「おみ脚を冷やすのはお身体にも良くないかと存じますが」
 いつものように謹厳な表情を崩さず言うのに、ソナは笑った。
「御医が言っていたのでしょう。でも、私はまだ殿下の御子を授かったわけではないんだもの。そんなことは懐妊してから考えるわ」
 陽の光を浴びつつ、水飛沫を飛ばしては歓声を上げるソナは十七歳の少女らしく、健康な美しさに輝いている。毎夜、王の寝所に入る間際の妖艶な夜着姿とは別人のようだ。
 この少女は純白の花のように可憐な天真爛漫さと漆黒の闇に開いた夜桜のように妖しい色香を持っている。恐らくはその二面性が若き国王を虜にして止まないのだろう。
 シム尚宮は八歳で女官見習いとして後宮に入った。後宮での生活は既に二十四年を数える。生涯の殆どを後宮という特殊な場所で過ごし、様々な人を見てきた。王の寵愛を受けた側室たちの栄枯盛衰さえも、彼女たちの王というただ一人の男を巡っての熾烈な闘いをも。
 そんなシム尚宮の眼に、シン淑媛はどこか危うく映った。シン淑媛当人にははなはだ不本意かもしれないが、この少女は女狐に化けるには優しすぎる。ぎりぎりのところで、夜叉になり切れない弱さがいずれシン淑媛の生命取りになりかねないことをシン尚宮は怖れた。
 シム尚宮の物想いを突如として甲高い声が破った。
「何と騒がしいことと思ったら、国王殿下にお仕えする側室ともあろう者が童のように脚を丸出しにして昼日中から水遊びとは」
 その時、ソナは思いきり深呼吸していた。池の周囲には大樹が緑陰をひろげ、水面にはその緑が映じている。
 対岸には六角形の屋根を頂いた四阿がはるかに見えている。あそこからハンと二人で池の鯉たちに餌をやるのもまた愉しいものだ。何とも気持ちの良い昼の午後で、先刻まで得体の知れぬ焦燥感に怯えていたのが嘘のようだ。
 その伸びやかな気分を一瞬にして台無しにした闖入者が現れた。聞き憶えがありすぎるその耳障りな声の主を、ソナは面を上げて見つめた。案の定、視線の先には李昭媛が数人の尚宮や女官たちを引き連れて立っている。
「おっしゃりたいことはそれだけ?」
 ソナは階段を辿り、汀まで戻った。少し離れた場所から李昭媛を静かなまなざしで見据える。
 昭媛がキッと眦をつり上げるのが判った。まったく、どうしてこうも感情を表に出すのだろう。愚かな女だ。
 ソナが淡い微笑を湛えて見つめるのに、昭媛の我慢も限界に達したようだ。
「人眼もはばからず、脚を丸見えにして、この季節に水遊びなど致すとは、流石は下賤な生まれ育ちは隠せぬな」
 唾棄するように言い、チマの裾を翻して去ろうとする。ソナは不気味なほど優しい声で呼びかけた。
「少しお待ちになって」
 シム尚宮が差し出した手巾で濡れた脚をぬぐい、絹の刺繍靴を履いて、ソナはゆっくりと昭媛の方へと歩んだ。
 昭媛が何事かと警戒心も露わに待ち構える。ソナは昭媛の手前まで来て、更にぐっと彼女に顔を近づけた。その襟元を直すふりをして囁く。
「紅の色が少し派手すぎませんこと? お歳をお召しなのですから」
「何だと?」
 昭媛の強ばった顔がいっそう引きつり、パァンと派手な音がした。
「―」
 ソナは片手のひらを打たれたばかりの頬に当て、うっすらと笑みを湛えた。花のように美しい面のままで、無造作に昭媛の頬を張り返す。
「そ、そっ、そなた」
 まさかソナが反撃に出るとは予想もしていなかったらしい昭媛が蒼白になった。
「昭媛さま、私はもうただの承恩尚宮ではございませぬ。殿下から位階を賜った正式な側室なのです。幾ら昭媛さまといえども、無闇に埒もない辱めを私に与えることを許すわけにはゆかないのですよ」
 すかさずソナの頬がまた鳴った。背後でシム尚宮の悲鳴が上がる。昭媛が続け様にソナの頬を打ったのだ。
「所詮は賤しい身分の成り上がり者ではないか、お前は! 本来ならば、ここにいることも許されぬ者なのだぞ」
 だが、言葉どおりソナも負けてはいなかった。すぐに応戦して、昭媛の頬を打ち返した。
「身分が何だというの? 後宮で生き残れるかどうかは身分じゃない。殿下のご寵愛がすべてでしょう? 長年ここで暮らして、まだそんなことが判らないの? いちいち嫉妬して見苦しく盛りの付いた猫のように騒ぎ立てて、みっともないったらないわ」
 言い棄てて見やると、昭媛はその白皙の面を怒りの余り、まだらに染めている。
「なっ、何と下品な。盛りの付いた猫などと恥ずかしげもなく口にするとは」
 確かにいささか派手な紅を塗った唇が戦慄く。ソナはたった今、両頬を打たれたことも忘れたかのように猫撫で声で囁きかけた。
「そういえば。聞きましたわよ。可愛がられている猫が死んでしまったとか、可哀想に」
 刹那、昭媛の眼が憎しみに光った。
「そなたの仕業であることは判っておるのだぞ。そなたが栄姫を殺したのであろう」
 昭媛のこれまでにも増しての憎悪はやはり、猫を殺したのがそも誰であるかを知ってのことだったのだ。それもそのはず、昭媛は他ならぬソナが飼い猫に饅頭を食べさせるのを見ていたのだから。
 ソナは艶やかな笑みをひろげた。
「証拠がありますの? 滅多なことはおっしゃらない方が身のためかもしれませんわよ」
 昭媛に更に顔を近づけ、お付きの者たちには聞こえぬ声で告げた。
「あなたもあの猫のようになりたくなければ、今後は少し大人しくなさることね。あまりに煩いと、昭媛さまにも口を永遠につぐんで頂かないといけなくなってしまうから」
 昭媛の顔が引きつった。射殺せそうな双眸でソナをねめつけ、昭媛はプイを顔を背けた。
「行くぞ」
 尚宮や女官たちに声をかけ、踵を返そうとする。その背に、今度は大きな声で呼びかけた。
「それから」
 昭媛が振り向く。その眼を見つめ返しながら、ソナは無表情に告げた。
「今度、猫をお飼いになるなら、栄姫などという馬鹿げた名を付けるのはお止めなさいませ。側室の飼い猫は公主(王の息女)ではないのです。この国の民、昭媛さまのおっしゃるところの身分賤しき者たちの中には宮殿のあなたさまの猫よりも貧しい食事に甘んじている人々もいるのです。そのような無辜の民の苦労一つ知らないあなたに彼らを貶める資格はありませぬゆえ」