相思花~王の涙~ 【後編】
恨めしげにソナの口許を見つめている。
「ああ、こんな美味しいものをお姉さまがお食べにならないなんて」
心底悔しげに言い、菊の花を象った饅頭を昭媛に突き出した。
「いかが?」
昭媛の手が自然に動き、それを受け取る。それを見たソナは二個目を食べ終わり、更に手を伸ばした。今度は昭媛に差し出した菊の花だ。こうして次々に食べて見せるのはむろん、相手に無用の警戒を抱かせないためである。
昭媛がひと口饅頭を頬張り、ふた口と食べる。いつかソナは食べるのを止め、ずっとその様子を盗み見ていた。三口めからは、とうとう昭媛は貪るように饅頭を丸ごと平らげてしまった。
「ね? 美味しいでしょ?」
微笑みかけたソナに、昭媛はハッとしたような表情になった。どうやら、我に返ったようだ。
「毒なんか入ってないとお判りですわね」
「えっ、ええ」
昭媛は半ば上の空で頷き、ソナは微笑んで彼女にまた二個目の饅頭を渡した。
「こんな美味しいものを食べないなんて、人生の大損失よ、さ、お姉さま」
一個も二個も同じことらしい。饅頭の前には、昭媛の金剛山(クムガンサン)よりも無駄に高い誇り(プライド)も呆気なく崩れ去ったらしい。
―馬鹿みたい。
ソナは内心で嘲笑し、自分も食べかけの饅頭を更に頬張ろうとしたその時。
ミャアと猫の鳴き声がして、ソナは小首を傾げた。
「まあ、可愛い。お姉さまのお飼いになっている猫ですのね」
真っ白い毛並みが艶やかな猫は首に紅いリボンが結んである。国王の側室の愛猫は十分に餌を与えられ、大切に扱われているのが判る。
―その日暮らしの民の方がよほど苦しい生活をしているわ。
上流両班の娘として生まれ、真綿にくるまれるようにして育ったこの女にはけして判らないだろう。だが、平民のさして裕福でもないどころか、その日暮らしだったソナは知っている。
世の中には飼い猫よりも惨めな食事をしている民がいるということを。
「おいで」
ソナが笑顔で手招きすると、人慣れした猫はすぐに近寄ってくる。そのつややかな毛並みを撫で、ソナは優しい声で言った。
「お前も甘いものは好きなのかしら」
手にした饅頭を示すと、猫は躊躇いもなくソナの手のひらから饅頭を食べた。
「あら、何て人慣れして可愛いのかしら。流石はお姉さまの愛猫だけはありますのね」
心にもないお世辞を重ね、結局、猫は饅頭をすべて食べてしまった。
「よろしかったら、残りはお姉さまが召し上がって」
そう言い残して、ソナは殿舎の前で控えるシム尚宮や女官たちを引き連れて帰った。
翌朝、ソナは王宮殿の寝所でハンと褥を共にして殿舎に戻った。いつものように寝所の扉の前で寝ずの番を勤めたシム尚宮がすかさず近寄ってくる。
「淑媛さま(マーマ)、李昭媛さまの飼い猫が昨夜、亡くなったそうです」
「―そう」
ソナは小声で告げられた言葉に眉一つ動かさなかった。猫に罪はない。だが、その猫の女主人はかつてソナの忠実な側近であるシム尚宮の頬をこれでもかというほど強く叩いた。あの後、シム尚宮の頬は酷いことになった。数日以上に渡って腫れが引かず、ソナは随分と心配したのだ。
あれは明らかにソナの身代わりとしてシム尚宮は打たれたのだ。国王の愛妾に手出しはできず、見せつけのためにも昭媛はシム尚宮を手に上げた。
―許さない。
あの時、決めたのだ。大切な身内とも呼べる者を理不尽に傷つけられた怒りをけして忘れまいと思った。シム尚宮を筆頭としてソナの殿舎の女官たちは皆、ソナのために身を挺して働いてくれる。忠義を尽くしてくれる彼女たちは弱い立場であり、それを守るのは主人たるソナの役目であった。
人よりも良い物を食べ肥え太っていた猫に罪はない。けれど、当人の李昭媛を殺すわけにはゆかない。だから、身代わりになって貰った。李昭媛がソナの身代わりとして大切なシム尚宮を思いきりはたいたように。
饅頭に入っていた毒は人間には効かない毒、犬猫の類が食すると血を吐いて死ぬという毒だった。ソナは初めから李昭媛の飼い猫を狙って昭媛を訪れたのだ。
かつて大妃はソナに語った。
―私のところでは心配ないが、今後、他の殿舎で出されたものは迂闊に口にせぬが身のためだ。
だが、用心するまでもなかった。昭媛は手土産まで持参して挨拶に来たソナに茶の一つも出さなかった。所詮はその程度の女なのだ。男にうち捨てられた自らの不運を他人のせいにして嘆くばかりで、自分では何一つ努力しようとしない。
ソナが昭媛ならば、何とかしてハンの気を惹こうと努力するに違いない。昭媛が自分に毒入りの茶菓子を出せば良かったとまでは思わないけれど、せめて本気で向かってくるほどの気概を示して欲しかった。
頭の悪い、智恵すらも働かない愚かな女。まともに相手をするのも馬鹿らしい。
恨むなら、馬鹿な自分の主を恨みなさい。
ソナは心の中で昨日、昭媛のところで見かけた猫に呟いた。
その数日後、ソナは南園にいた。宮殿の広大な庭園の一角、大きな池が横たわっている。到底人工池とも思えぬ巨大な池の周辺は、国王と寵姫のお気に入りの散策コースでもあった。
今日はハンは大殿で廷臣たちと緊急会議が開かれるとかで、そちらに行っている。従って、ソナは一人で水辺に佇んでいた。
既に十月半ばも過ぎた。池面を渡ってくる風は確かにもう夏のものではない。こうして、どこか冷たさを含んだ風に身を任せていると、ソナは心にまで薄ら寒い風が吹き込んでくるような気がした。
何故なのか。最近、妙に忙しない気分になるときがある。何かに駆り立てられるというか、背後から何ものかに追われているかのような。言葉にするのは難しいけれど、例えていうなら、自らに残されている時間が残り少なくなりつつあるような。
―馬鹿な。
ソナはふっと自嘲めいた笑みを零す。まだ十七歳で、病気一つ知らない健康体だ。しかも、王の寵愛も厚い側室に誰が仇なすというのか?
いや、王の寵愛を一身に集める寵姫だからこそ、生命が危ういのか?
ソナを目障りとして毒殺したい輩は後宮にごまんといるだろう―、大妃はそう言った。しかし、今のソナはもう一介の特別尚宮ではない。位階も賜った歴とした側室なのだ。その側室を白昼堂々と殺す身の程知らずの輩がどこかにいるとでも?
ソナは知らず背後を振り返った。後ろにはハンと二人でよくそぞろ歩く小道がひろがっている。ソナの視線を受け止めたのは、影のように控えるシム尚宮だった。
「淑媛(スクウォン)さま(マーマ)、どうかなさいましたか?」
シム尚宮が物問いたげに問うのに、ソナはやわらかに微笑んだ。確たる理由もないのに主人(あるじ)がいたずらに怯えていては、仕える者たちまで無用の不安に陥れるだけだ。
「何でもない」
ソナは笑いかけ、また池に向き直った。この季節、寒暖の差があり、今日などは日中の今は夏に戻ったのかと思うほど、気温が上がっている。
ソナは絹製の赤い靴、次に足袋(ポソン)を脱いだ。シム尚宮が近寄ってくる。
「何をなさるのです?」
ソナはふふっと無邪気な童女のように微笑む。
「今日は暑いでしょ。少し水遊びでもしようと思ってね」
作品名:相思花~王の涙~ 【後編】 作家名:東 めぐみ