相思花~王の涙~ 【後編】
先刻から、ソナはにこやかな笑みを絶やさず、真正面に対峙する相手を見つめていた。一方、向こうは露骨に敵意と憎悪をその大きな瞳に漲らせ、射殺せそうなほどの烈しい視線で睨みつけてくる。
「一体、何のつもり?」
憤りのせいか、声を戦慄(わなな)かせる女に、ソナは満面の―恐らく誰が見ても心からの笑みに見えるはずだ―笑みを浮かべて言った。
「私の方こそ李昭媛(ソウォン)さまにお訊きしとうございます。何のつもり、とは、いかなる意味にございましょう?」
ついに李昭媛が金切り声を上げた。
「良い加減にして! 私はあなたのように猿芝居ができるほど、気が長くないのよ」
―猿ですって? 無能なのは一体、どちらなのかしらね。
ソナは腹で眼前のこの愚かな女をせせら笑った。
「お前が国王殿下にご寝所でねだったと後宮中どころか朝廷の廷臣たちの間でも噂になっているそうじゃないの!」
李昭媛が声をまた震わせた。その可愛らしい顔が怒りのあまり形相が変わってしまっている。よくよく見れば、それなりに整った愛らしい顔立ちをしているし、歳も二十五歳と古参の側室たちの中では最も若い。もっと利口にふるまえば、王の寵愛を得る出たては幾つもあったろうに。
自らの感情に任せて怒り罵り、行動する。およそ理性の欠片もないような無知な女をハンは最も嫌うはずだ。何年もハンの側近くにいて、そんなことも見抜けなかったのかと怒りよりはむしろ、哀れさを感じる。
「はて、何のことやら。私の方こそ、何のことやら、とんと判りかねますが」
「お前がお閨で、私を淑媛から昭媛にして欲しいと殿下に頼み込んだと!」
李昭媛が叫んだ。いつしか?あなた?が?お前?になっている。相当、頭に来ている証だ。
「そのような噂がございましたか?」
ソナはあくまでも素知らぬ顔でシラを切り通す。
李昭媛が喚いた。
「どこまでもしらばくれるつもりなの、この妖魔めが」
ソナの脳裡に数日前の出来事が甦った。その夜はハンがソナの殿舎に渡り、そこで一夜を過ごした。その折、ソナはハンに抱かれた後、裸の胸に顔を寄せて訴えたのだ。
―私が特別尚宮から淑媛になりましたのに、李淑媛さまがいまだ同じ位階なのはいかにも心苦しうございます。
本音を言えば、李淑媛の処遇がどうなろうが関心はなかったけれど、やはり、?国王を惑わせる妖婦?が晴れて側室になり、古株の側室の位階と同列なのはいかにも外聞が悪い。そのため、ソナが一計を案じたというわけだった。
―確かに李淑媛は古参の側室ではあるが、子を生んでおらぬという点では、そなたと同じだ。さほど気にするには及ぶまい。
ハンはさして頓着していないようではあったが、ソナが涙ながらに懇願すると、しまいには折れた。
―判った。そなたが李淑媛に遠慮して泣くほど辛いのなら、李淑媛の位階を上げよう。子もおらぬゆえ、すぐ上の昭媛に引き上げるにとどめるが、それで良いな?
―ありがとうございます、殿下。殿下の広くお優しい御心に感謝致します。
涙を流すソナの背を優しくさすり、ハンは幼子をあやすように言った。
―そなたはいつまで経っても、知り合ったときのままだ。そうやって常に他人に優しく我が身より李淑媛のことを気に掛ける。いつまでも変わらぬそなたの優しさに私はますます惹かれずにはいられぬのだ、ソナ。
ハンは、ソナの本心も知らず、ソナが泣き止むまで辛抱強く腕に抱いて背を撫で続けた。
むろん、ソナの流した涙は空涙だ。誰があんな高慢ちきで礼儀知らずの女の心配など、本気でしてやるものか。
翌日、異例の速さで李淑媛に昭媛の位を賜るとの王命の伝達式が行われた。この一件は瞬く間にひろがり、今やソナことシン淑媛のひと言が後宮の人事をも左右するという動かぬ事実を証明することとなった。
―シン淑媛が閨で涙を流せば、殿下は立ち所にどのような願いも聞き届けられるそうな。
人々は寄ると触ると、小声で囁き合った。
ソナが数日前のハンとのやりとりを思い出していると、またしても李昭媛の怒声が飛んできた。
「お前のせいで、私は後宮中の笑いものよ。殿下ご自身のご意思ではなく、寄りにも寄ってシン淑媛の?閨のおねだり?で昇進したとね」
ソナはうつむけていた面をつと上げた。視線を初めて眼前の女に合わせる。
「それがどうか致しましたか?」
「何―ですって?」
李昭媛が息を呑んだ。
「仮に私が殿下にお願いしたことだと致します。だから、それがどうだというのです」
ソナは淡々と告げた。
李昭媛がまた声を震わせる。
「おっ、お前という女は―」
「はっきりと言わせて頂きますが、私は既に殿下より正式に位階を賜った側室にございます。確かに昭媛さまの方が年嵩の先輩であり、位階も上にはございますが、さりとて、私を?お前?呼ばわりするのは失礼ではございませんか?」
言葉の端々に年嵩だとか、位階も上だとか皮肉を混ぜ込み、はっきりと言ってやる。
ソナは妖艶に微笑んだ。
「私がもし李昭媛さまの立場なら、少なくともそのように見苦しいふるまいは致しません。たとえ殺してやりたいほど憎い敵だとしても、差し出された餌を逆に利用して更に上へと這い上って見せます」
李昭媛の顔色がはっきりと変わった。
ソナは彼女の蒼褪めた顔を見つめ、一語一語をよく聞こえるように告げる。
「私が自分の不名誉な噂を挽回するために、昭媛さまの位階を上げるように殿下に進言した。それが事実かどうかは誰にも判らぬことです。されど、昭媛さまにとって、そのようなことはどうでもよろしいのではありせんか? 大切なのはこれからでしょう。たとえ、どのような経緯にせよ、位階が上がったのです。ギャーギャーと見苦しくわめき立ててその真相を暴こうとするよりは、それを足がかりに更に高みを目指す。それくらいの心意気をお持ちなさいませ」
「よくもそんな口がきけたものね。お前の顔など見たくもない。さっさと帰れ」
李昭媛が怒気を孕んだ声を上げた。
「こうしてわざわざお伺いしたのに、持参した菓子を召し上がっても頂けませんの?」
「お前の持ってきた菓子など食べられるものか。どうせ毒入りであろう」
ここは李昭媛の居室である。言葉どおり、今日はソナの方から李昭媛を訪ねてきたのであった。今、二人の間にある文机には美しい紙が貼られた菓子箱に入った饅頭が並んでいる。
むろん、立場上は上位の李昭媛が上座で座椅子に座り、ソナは下座で座っている。ソナは四季の花と小鳥を描いた屏風を背にした李昭媛にまぶしいばかりの笑みを向けた。
「私が大切なお姉さまに毒入り菓子を差し上げるとでも?」
ソナは言うなり手を伸ばし、箱から饅頭を摘んだ。秋の花を象った饅頭が眼にもあやに並ぶ様はあたかも花たちが咲き誇る花園を見るかのようだ。その中の一つ、桔梗を手に取る。
「ああ、美味しい」
ソナは笑顔で李昭媛に話しかける。
「この上品な甘みが堪りませんことよ、お姉さま」
ソナは見る間に一個目を平らげ、今度は二個目、紅葉に手を伸ばした。
「これも美味しいわ」
さも美味げに食べつつ、横目で李昭媛の様子を窺う。李昭媛が無類の甘いもの好きだとは、これも側近のシム尚宮から仕入れた情報である。昭媛の白い喉がゴクリと鳴った。
作品名:相思花~王の涙~ 【後編】 作家名:東 めぐみ