慟哭の箱 3
食器を洗ってからテーブルに戻ると、旭は桜を膝に抱いていた。桜は嬉しそうに彼の膝で歌っている。梢は手を拭いて彼らのもとに戻る。
「ごめんね須賀くん、子守させちゃって」
声をかけると、桜の頭に顔をうずめていた旭が顔をあげた。
え?
梢は、その顔を見て息をのんだ。
「あたしねえ、子どもを産むのが夢なんだあ」
旭が言った。
その顔も、声も、先ほどの旭とは全く違っている。突然違う世界に放り込まれたような、唐突であまりに異様な光景。
「女の子はかわいいね。うらやましい」
さきほどの旭とは違う。妖艶な笑い方。色気が漂い、傾げた首は女性の仕草だった。声も違う。旭が、女になっている。化けたのではなく、突然彼は女になった。そう表現するしかない。
「…須賀くん、どうしたの」
ふざけているのか?いや、違う。演技とか、なりきっているとか、そういうものではない。
別人になった。
梢を見つめる目が細められた。美しい瞳に、吸い込まれそうになる。さきほどの力のない笑みを浮かべている旭からは、想像もできない笑い方だった。
「あなたは…誰なの?」
「わたしは氷雨(ひさめ)」
氷雨?
氷雨と名乗った旭は、指先で桜の頬をくすぐる。優しい仕草だった。桜が嬉しそうに笑い声をあげる。先ほどの受動的なかかわり方とは違う、女性的な、もっといえば母性的なかかわり方。
梢は混乱しながらも、彼の向かいのいすに腰掛ける。
「この子、なんていうの?」
「桜よ…」
「あなたは桜ちゃんのお母さんね」
「ええ……」
「あたしは涼太(りょうた)や旭のお母さん代わりで、あの子たちが大好きだけど…やっぱりいつかは、自分の子どもがほしいなあ」
涼太?旭?ますます混乱する梢だが、何を言っていいのか、どうしていいのかわからない。ただ氷雨を名乗る旭の目も指先もとても優しく、桜に危害を加えるような気配は一切なかった。
「あっ、ねえどうしよう。桜ちゃん、うとうとしてるよ」
「え?あ、そうね…そろそろお昼寝の時間だから」
「あの…あたしが寝かしつけてもいいかなあ?」
上目づかいで尋ねられる。その目は期待に満ちていて、夢がかなう瞬間が来たようなきらきらした目だった。
「…そうね。じゃあ、お願いしてもいい?」
「いいの?ありがとう!嬉しい!」
寝室に消えた二人を見送り、梢は茫然と佇む。一連の出来事に頭がついていかない。
あれはなに?一瞬でひとが変わってしまった。夢?違う。現実…。しばし立ち尽くす梢の耳に、遠くから雨の音が響いてくる。
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