慟哭の箱 3
怪訝そうな表情をうかべる清瀬の前に、コーヒーカップを置き、その向かいに座った。
「人間の心ってね、すごいの。どんな精巧な機械やコンピューターよりも繊細で複雑にできていて、使い手にも想像できないような行動をとるのよ。解離性障害っていうのは、たとえば耐え難く苦しい思いをしたときに、心がとる行動によって起こるもの」
どういうことでしょう、と眉根を寄せる清瀬。付箋をはった医学書を引き寄せ、開いて見せる。
「とてつもない苦痛があなたを襲ったとする。事故かもしれないし、愛する人の死かもしれない。好きな子の前で犬のうんこを踏んだっていう些細なことかもしれない。苦しみや痛みはひとによって様々だから、たとえ犬のうんこように些細なことでも、当人にとっては死にたくなるほどの苦しみだということもあると覚えておいてね。そうするとあなたの心は、自分を守るために計算をはじきだす」
それは恐ろしく速い、巧緻な計算なのだ。
「この苦しみから自分を救うにはどうすればいいかという計算。この苦しみは自分が経験していることじゃない、と逃避するかもしれない。この苦しみは忘れてしまえ、とそこだけ記憶を封じてしまうかもしれない。これが離人症や解離性健忘と呼ばれているね」
「…須賀くんがそれだと?確かに彼には記憶の欠如が見られますが…」
清瀬の言葉に、野上は首を振る。
「刑事さんはあの子としばらく生活してみて、奇妙な体験をしなかった?例えば…聞いたことのない声をきいたとか、あなたと須賀くん以外の誰かの気配を感じたとか」
清瀬が凍り付く。覚えがあるのだ。やはり、と野上は確信する。
「須賀くんは、解離性障害の中のひとつであり、もっとも重症である解離性同一性障害の疑いがある。切り離した感情や忘れようと封じた記憶が人格を持ってしまうの」
「人格…?」
「解離性同一性障害とは、一昔前には多重人格なんて呼ばれていたのよ」
清瀬は、おそらく無意識だろう。口元を片手で覆った。衝撃でこぼれそうになる言葉を必死に押しとどめようとするかのように。
「須賀くんが言ってたこと覚えてる?記憶を失う前後に、誰かの声を聴いたりするって。女の人だったり子どもだったりって。あれがおそらく、あの子の中の別の人格の声なんだと思う。そしてあの子の記憶が断絶するのは、その別人格が表面に現れているから」