私の読む「源氏物語」
「お上も貴女と同じ思いで過ごされています、『私の勝手な気持ちから、人目にもはばかるような御息所を寵愛してしまい、そのことからこのような悪い成り行きになってしまった。今になって振り返って二人の仲を考えてみるとこれは宿命であったとしか言えない。ただ更衣を愛したことで誰に迷惑をかけたということもないのに、後見人のない更衣を寵愛したことで、多くの女房達から恨まれ、挙げ句の果てにはこのように若死にしてしまった。その不満と悲しみで煮えたぎっている私の気持ちを静める術もなくただただ涙に明け暮れているこの愚かな自分は、一体どんな前世であったことか。』と繰り返し仰られて力無く座っておられます。」
と命婦は語る。
靫負命婦と更衣の母の会話が尽きることがない。命婦は話を折って、
「夜も大層深まりました、今夜のうちに帝に申し上げねばなりません。」
と急いで帰ることにした。
外に出るとさきほどまで輝いていた月は隠れようとしている、空は澄み渡り、風も少し寒さを増してきた、草むらから虫の声がもの悲しく去りにくい庭の風情である。
鈴虫の声の限りを尽くしても
長き夜あかずふる涙かな
(鈴を振るような鈴虫の鳴き声が尽きないように、私の悲しみの涙も降り続けています)
と別れの時思わず命婦の口から歌がこぼれた。すかさず更衣の母は
いとどしく虫の音しげき
浅茅生に
露置き添ふる雲の上人
(激しくなく虫たちの居るこの田舎にお出で下さいまして、私と共に娘を偲んで涙を流してくださる靫負命婦さまありがとう御座いました)
「恨み言がまた口から出そうで御座います。」
と母御は答えた。適当なお土産になる物もないので、こんなこともあるかと亡き娘の装束ひと揃いと、髪上げの道具を添えて、帰途についた命婦に持たせた。
一方内裏では、若い若宮付きの女房達は、亡くなった若宮の母の更衣のことを思い出すと悲しいのであるが、内裏の生活に若宮が不在になったことが何となく淋しくて、若宮が居られなくなって帝が無聊をかこっておられることを考えると、早く亡き更衣の母御が若宮を伴って参内されるように、度々お勧めになられるが、
「このように老いた私が若宮に付き添って参内することは、世間で何と言うでしょうか。しかし若宮が帝の前に伺候しないということも気になることです。」
と、そのたび毎に母御は返事なさっり、若宮を気分良くみんなが参内させようとするまでは手許に置いておかれたのである。
「帝は、まだ休まれないで起きて待っていらしゃいます」
というので、靫負命婦は急いでお前に伺候すると、帝は清涼殿と後涼殿の間の前栽が大層美しく咲いているのを、何人かの女房とご覧になっていたが、命婦を見るとすぐに報告をお聞きになる。命婦は若宮とその母御の生活ぶりを細かく伝える。
帝は最近毎日のように宇多天皇が絵師に命じて描かした「長恨歌」という絵を眺められる。その絵には宇多天皇の中宮付きの歌人であり女房であった「伊勢」の歌と『古今和歌集』の選者である紀貫之の漢詩が書き込まれている。「長恨歌」は唐国の玄宗皇帝のことを詠った漢詩であるが、その中に出てくる皇帝の愛人楊貴妃と亡くなった桐壺更衣を重ね合わせて、周りの女房達に物語りされる。
靫負命婦の報告を聞いてから帝は細々と更衣の里にいる若宮と世話をしている母御のことをお尋ねになる。ひっそりとした荒れたなかで祖母と暮らしている若宮のことを命婦は静かに報告する。更衣の母から帝へ宛てた文をご覧になる。
「大変恐れ多い御文を頂きまして身の置き所がなく恐縮いたしております。仰せを聞くだけで心が乱れてどうすればいいのか迷っております。
荒き風ふせぎし蔭の
枯れしより
小萩がうへぞ静心なき
(若宮を世間の荒い風から防いでくれた桐壺更衣の亡き後は、風を防ぐ手だてがなく荒れた風に吹かれる小萩のように若宮も落ち着く場所がありません)」
と母御の文。文の乱れが見える。
うけとった帝は、母御の気持ちが落ち着かないことからこのような文になったのであると、推察された。自分もこのような乱れた文を見ると、心がおかしくなり、騒ぎ出す心を抑えようと努力はするのだが、初めて逢った更衣のことが頭に浮かび、二人初めて臥した床のことが目に鮮やかに見えてくる。
「あれだけ毎日傍らにあって離れたこともなかったあの更衣が、失せてしまい傍らが空白で寒々としているのに今日までよくぞ毎日この身体が無事であったものだ」
帝は自分の心の状態に思わずあきれてしまった。
「あの娘の亡き大納言の遺言を守って、宮仕えを貫き通した喜びは、その甲斐があったと思っていたのだが、失せてしまい本当に残念に思う。」
大変桐壺の更衣を哀れに感じ、命婦に
「更衣が亡くなって、遺された若宮も追々成長するであろう、その時はそれなりの位を授けて一家を立てるようにするからお前も長生きするように」
と命婦に母御に告げるように言われる。
持ち帰った更衣の形見の品々をご覧になって、
「死んだあの娘の行き着く先を探し当てたという証拠の品であればなあ・・・」
釵を手にとってしみじみと懐かしみ、ぽつんと言われる。
尋ねゆく幻もがなつてにても
魂のありかをそことしるべく
(あの娘の行き先を探し出してくれる術士が居るのならば、あの娘の魂の住む場所が分かるのに)
と、ぼそっと詠われた。
これは唐の国の故事である楊貴妃を玄宗が懐かしんでのことであるが、ここに絵に描かれた楊貴妃の顔はどんな上手い絵師でも限界があるもので、とてもじゃないが現実の雰囲気までを表現することは出来ない。唐の国の宮中の「大液池の蓮の花、未央宮の柳」の句のように称えられた美しい女であったろうが、やはり唐土の服装では、あの桐壺の更衣の装った姿にはかないっこないと、在りし日のあの何とも言えない可愛く匂いのある艶のある姿を帝は思いだしていた。あの姿は花や鳥や蝶には例えることが出来ないと思われた。そして共に臥して身体を求め合ったときに高ぶった気持ちから彼女に、
「天に住むようになっても比翼の鳥のように離れることはない、地上にあっても連理の枝となって二人の固く結んだ絆はほどけるようなことはない」
と囁くとともに固く抱きしめあう。朝が来て二人が床を離れて別れる時も、二人は抱き合って同じ言葉を囁いて約束される。その言葉通りに行かなかったことを帝は恨めしく思っておられる。
風の音、虫の音、ちょっとした周りの変化にも反応して悲しくなる帝に対して、中宮である一ノ宮の母、弘徽殿の女御は、帝の悲しみに関係なく、帝の前に参上するでもなく、月夜の夜は誰はばかることなく管弦の催しを開かれる。帝にとっては不愉快極まる行動であった。最近の帝の様子を見ている殿上人や女房たちは、帝の悲しみも考えないで随分派手なことをなさるものだ、困ったものだ、と楽の音を聞いていた。しかし弘徽殿の女御は気の強い女でそのような周りの人の困った気持ちなどに頓着することがなくしたいような毎日を送っていた。
月もやがて山の端に消えてしまった。
雲の上も涙にくるる秋の月
いかですむらむ浅茅の宿
作品名:私の読む「源氏物語」 作家名:陽高慈雨