慟哭の箱 1
引っ越してから生活に必要なものを買いに行く間もなかったから、梢の申し出はありがたいよ、と清瀬は言った。こまごまとした日用品を買い込みながら、清瀬は旭と取り留めのない会話をする。事件のことには触れてこない清瀬に、旭は気遣いと優しさを感じた。ここにいる間は忘れていいよと、そう言ってくれているようで嬉しかった。
「おかえりー」
マンションに戻ると、ダンボールの山は一部片付き、ダイニングテーブルには温かな夕食が並んでいた。湯気をたてている鍋を見て、旭は久しぶりに空腹を感じた、病院では殆ど何も食べなかったし食べたくなかったのに。
「悪いなあ、飯まで」
「お客さんいるのに、カップラーメンなんか食べさせられないでしょ。荷物置いておいでよ。須賀くんも、一緒に食べようね」
梢が微笑み、旭の心に柔らかな火が灯る。
「この部屋空いてるから使って。布団は一応干してあるし、棚やらなんやら勝手に使ってくれていいから」
「ありがとうございます」
「必要なものがあったら言って。着替えたら飯にしよう」
清瀬に一室あてがわれ、旭は荷物を下ろした。一人になる。三階の窓からは、雨にけぶる街が一望できた。
(・・・俺はこれから、どうなるんだろう)
たちまち不安が押し寄せてくる。どす黒い濁流が身体の中で暴れている。怖い。この夜の闇に、堕ちていってしまいそうだ。
(・・・思い出せない、俺はどうして・・・)
右手のひらを掲げる。切られた傷。だけどどんなふうにできたかは覚えていない。ごっそりと抜け落ちた記憶。それが戻ってきたとき、自分はどうなってしまうのだろう。
「須賀くーん」
立ち尽くしていた旭の背中に声がかかる。
「着替えある?これお兄ちゃんの荷物から出てきた新品のパンツだから使って!」
ぽーん。ばしっ。振り返った旭の顔にビニールに入った下着が跳んできた。
「ぱ、ぱんつ?」
「梢、須賀くんちゃんと着替え持ってきてるから。俺のパンツ投げるな」
「あ、そうなんだ」
「まったく、幸太郎くんもなんでこんなガサツなのを嫁にもらう気になったのかな」
「失礼だなあ。ほら須賀くん、ご飯食べようよ。寒いからお鍋にしたんだ」
光に誘われるように、旭は二人のもとへ向かう。不安がほんの少し軽くなって、笑えるようになっている自分がいた。