生と性(改稿版)
隆の笑顔は相変わらず爽やかだった。そんな隆が急に小声で囁いた。
「高田さんの仕事のこと、噂に聞いているよ。ちょっと折り入って相談したいことがあるんだけど、今日の六時くらいに百日台駅前の喫茶店『純』で会えないかな?」
恵美はフッと笑った。隆にまで自分の仕事のことが知られているとは、人の口に戸は立てられないと思ったものである。
「私に出来ることだったらいいわよ」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
そう言って笑顔を覗かせると、隆は中年の職員と河原の方へ下りていった。
恵美はその背中を優しい瞳で追った。
午後六時ちょっと前くらいに、恵美は喫茶店「純」に着いていた。ホットのミルクティーを注文し、隆が来るのを待った。今日の午後は知的障害者の家を一軒回り、「性介助」を済ませてきた恵美である。
隆は六時をちょっと回った頃、喫茶店にやってきた。
「いやー、遅くなってごめん。待った?」
「ううん。私は商売柄、時間よりは早めに到着するよう心掛けているの」
「流石だなぁ」
隆は感心したように頷くと、店員にコーヒーを注文した。
「で、相談って何?」
「今、俺さ、遠矢美佐子と付き合っているんだ」
「えー、美佐子と?」
遠矢美佐子もまた高校の同級生であった。活発な女子で、確かバスケ部だったはずだ。
「へえー、懐かしいなぁ。美佐子は元気?」
恵美はミルクティーを啜りながら、目を細めた。
「その美佐子なんだが、今は車椅子生活なんだよ」
「えっ?」
「俺が異動する前の話なんだけど、球磨川の治水工事でショベルカーが倒れて女の人が下敷きになった事故に遭ってね」
「あ、それ聞いたことある。あの事故に遭ったのって美佐子だったの?」
「そうなんだ。美佐子は下半身不随となって、県と治水事務所を相手に損害賠償請求の訴訟を起こしてね。こじれちまったんだ」
「美佐子は昔から気が強かったからね」
「そこでたまたま俺が異動になって、苦情係をやらされたってわけ。美佐子とそこで再会したんだよ」
「ふーん、人の奇縁(えにし)ってわからないものね」
「美佐子が言うには、俺と付き合ってくれたら訴訟を取り下げるって……」
「もともと美佐子は瀬谷君が好きだったからね」
「俺も美佐子のこと好きだったんだよ。つまり高校時代はお互いに告白できないまま過ぎていっちゃっていたんだな」
「で、私にどうしろって言うの?」
恵美は隆の顔を覗き込んだ。隆の顔は少し赤くなっている。
「俺たち、結婚しようと思っているんだけどさ。そのー、あれだよ……」
隆はもじもじと話を切り出せないでいる。恵美にはおおよその察しはついていた。
「セックスがうまくいかないんでしょう?」
「そ、そうなんだ。何せ相手は下半身不随だろ、どうしていいかわからなくってさ」
恵美は新城哲夫のケースを思い出していた。彼もまた下半身不随である。哲夫の場合、男性機能が麻痺してしまっている。だとすれば美佐子もまた男性を受け入れるのが困難な身体である可能性が高い。
「美佐子、紙おむつをしているくらいなんだぜ」
「そうなんだ……。でも、何とでもなるわよ。お互い愛しあっているんでしょ?」
「ああ、もちろん。実は美佐子から頼まれたんだ。高田さんにアドバイスを貰いたいって」
おそらく美佐子は障害者団体か何かを通じて恵美の仕事を知ったのだろう。そんなことがあっても不思議ではないと恵美は思った。
「謝礼ははずむからさ。俺と美佐子の、そのー……俺と美佐子のセックスに立ち会って、色々と指導して欲しいんだ」
「いいわよ」
恵美はすぐに返答した。恵美にはそれなりの方策が浮んでいるようだ。
「本当かい? いやー、助かるなぁ。やっぱり高田さんに相談してよかったよ。じゃあ、明日の夜七時、球磨川沿いの市営住宅で待ち合わせよう」
隆はホッとした安堵のような表情を浮かべる。おそらくは、恵美に相談しようかどうしようか、悩んだに違いない。それでも、偶然の再会が、恵美、隆、美佐子を繋いだのだ。恵美にはどこかで仕組まれた再会のような気がした。
「ああ、市営住宅の障害者用住宅に今、美佐子はいるんだ」
恵美が不思議そうな顔をしていると、隆が補足した。
「仕事はしているの?」
「在宅で翻訳の仕事をしているよ。あいつ、英文科卒だから」
「そっか……。彼女もそれなりに頑張っているのね」
「ああ……。あ、その紅茶、俺が奢るから……」
隆は嬉しそうに席を立った。その円満の笑みからは心の底から美佐子のことを大事にしている様子が窺い知れた。恵美はフッと笑った。
喫茶店を出るといい風が吹いていた。外はもう宵闇に包まれていた。
隆はスキップをするようにして、街中に消えていった。恵美はゆっくりと街を練り歩く。
恵美がぼんやりと夜の街を歩いていると、ドンと肩にぶつかった者がいた。
「あ、ごめんなさい」
恵美が振り返る。その瞬間、恵美の顔が凍て付いた。
「竜二?」
ぶつかった男は「すみません」と言ったまま俯いている。
「今の僕は洋一です。竜二が何かあなたにしましたか?」
「とぼけないで!」
夜の街の中で恵美の怒鳴る声が響いた。だが、洋一と名乗った男は俯いたまま、「失礼します」と言って立ち去ろうとした。その手を恵美がムンズと掴んだ。
「あの時の代金、払ってもらうから!」
それは恵美にとって忌々しい記憶だった。去年の夏のことである。恵美はこの男にレイプされたのだ。恵美は確かに身体を売り物にはしている。だからと言ってレイプされることは別問題だ。
その男は「俺も障害者なんだよ」と言って近づいてきた。身体はどこも悪くなさそうだった。
「俺は竜二だ。金はない。これからお前を犯す」
そう宣言し、無理矢理ラブホテルに連れ込み、恵美を手篭めにしたのだ。それは荒々しい行為の連続で、恵美の肌の至るところに、竜二と名乗る男の歯型や、強い吸引でつけられたキスマークが付けられたものだった。
その後、竜二の所在はわからなかった。恵美は忌々しい記憶と共に、竜二という男の存在を永遠に封印しようと思っていたのである。
だが、目の前にいる男はどうだ。あの時のような荒々しさもなければ、生気もない。顔こそ同じだが、まるで別人のように思えた。
「あなた、双子?」
「違います。僕も竜二も同一人物なんです」
「どういうこと? 納得のいく説明を求めるわ」
「すみません。これからカウンセリングに行くんです。そこの待合でよければ、お話しますよ」
洋一は俯きながら歩き始めた。恵美はぴったりと後にくっついていく。その全身からは憤怒のオーラが沸き上がっていた。
程なくしてビルの二階にある精神科の待合に二人の姿を見ることができる。ここの精神科は心理カウンセリングも標榜していた。
洋一は診察券を出し、診察の順番を待っていた。他に患者は見当たらなかった。それでも、前の患者の診察時間は相当長いようだ。精神科では、特にカウンセリングではいわゆる「三分診療」はしない。その患者の心を紐解くために、多大な時間を要するのだ。
「僕は解離性人格障害なんですよ」
洋一がボソッと言った。恵美には「解離性人格障害」の意味がわからない。一体、どのような障害だというのだろうか。
「いわゆる多重人格ですよ」