生と性(改稿版)
「それにそっちだって商売で身体を売っているんだろう。だったらピルを飲むとか、リングを入れるとか、避妊対策ぐらいしとけってんだ。俺は生でやりたいんだ。でないと、金は払わないぞ」
昇一が吠えた。その言葉を聞いて、恵美は愕然とした。
「あなたはまともじゃないわ」
「何?」
「権利を主張するのもいいけど、度が過ぎると単なる『わがまま』になるのよ。他人と上手く付き合うにはそれなりのルールがあるわ。あなたにはそれがわかっていない」
「俺はこれで通してきたんだ」
こともあろうに昇一は胸を張っている。障害者団体の活動を積極的に行っている自負も昇一にはあるのだろう。だが、恵美はその団体が他の障害者団体と衝突を繰り返していることを知っていた。おそらくは昇一のような自己主張ばかり強い人たちの集まりなのだろうと恵美は推測する。
「もう、あなたのところには来ないわ。自分の障害を笠に着て自己主張ばかり押し通そうとする人はお断りだわ。私の『性介助』はね、信頼関係の上で成り立っているのよ」
そう言って、恵美は着衣を始めた。恵美の心の中では灼熱のマグマのような怒りが今にも爆発しそうだった。
「俺を断ると、客が減るぞ。仲間内にあんたのことを言いふらしてやる」
「どうそ、お構いなく。私は自分の足で客を見つけますから……」
着衣を済ました恵美は、振り返ることもなく昇一の家を後にした。昇一は「待て、よくも恥をかかせてくれたな!」と叫んだが、恵美は振り返らず、足早に去っていった。
恵美はその足で帰帆駅まで行くと、電車に飛び乗った。次の予約時間までは大分あったが、早く昇一の側から離れたかったのだ。
帰帆駅から駅を三つほど下ると、二カ瀬駅に着く。ここは恵美の住む帰帆市の隣町である二カ瀬町になる。そこは海岸縁の港町なのだが、どこかよそ者を嫌い、閉鎖的な地域であった。今日は昇一の後、ここに住む横田栄三郎という高齢の障害者を訪ねる予定の恵美であった。
二カ瀬駅前は寂れており、商店街の半数は店を閉めていた。それでも港の改修工事のトラックが行き交っている。恵美は横断歩道の信号を渡ろうとした。すると、プワーンという大きなクラクションを鳴らし、まるで首を傾げたカマキリのようなトレーラーが恵美の目前スレスレを通過して行った。砂埃とともに。
「バカヤロー! 歩行者優先だろう!」
恵美が怒鳴った。だが、トレーラーは爆音を立てながら、足早に去っていった。
栄三郎の住むアパートは海が望める高台にあった。栄三郎は両脚の長さが違い、補装具をいつも外出する時は着けていた。栄三郎の収入は全面的に生活保護に頼っている。そんな栄三郎だから謝礼は他の人より安くしている恵美であった。障害の程度としては軽く、障害年金の対象にはならなかったし、まともに国民年金も払っていなかったようだ。無論、厚生年金に加入しているようなところで働いたこともなく、生活保護に頼らなければ、栄三郎の生活は破綻してしまう。
恵美が坂を上って栄三郎の家に向かう途中、道の辻角で地元の主婦が井戸端会議に花を咲かせていたが、恵美が通りかかった途端に声を潜めた。好奇の目は恵美に向けられる。恵美はその背中に「またよそ者よ」という声を聞いた。この土地の排他的な風土がどうも恵美には馴染めなかった。
恵美が栄三郎のアパートに着き、ドアをノックすると中から「開いてるよー!」という声が返ってきた。恵美は「失礼します」と言ってドアノブを捻った。
栄三郎は奥の六畳間にいた。そこは海がよく見える部屋だ。いつもは恵美を笑顔で迎えてくれる栄三郎だが、今日は茶碗酒を煽っていた。
「ああ、今日はあんたが来る日だったか……」
「つれないのね。いつもは楽しみにして待っていてくれるじゃない」
恵美は家に上がると、六畳間へと進んだ。栄三郎は大分、深酒をしているようで、既に顔は真っ赤だった。
「飲みすぎは身体に毒よ」
「今日は飲みたい気分なんだ。こんなところを福祉事務所の担当に見られたら、小言を言われるんだろうがな。なーに、担当も滅多に来やせんて」
そう言って、栄三郎は残りの酒を一気に煽った。
「何かあったの?」
「うん、あんたに話すことじゃないかもしれんが、福祉事務所の担当が儂の娘のところに連絡をしたみたいなんだ。扶養してくれって。だが、娘は儂の文句を散々言って電話を切ったそうだよ。まあ、儂も借金こさえて、それを女房と娘にすべて押し付けて逃げてきたからな。当然と言えば当然よ……」
「そうだったんだ……」
「こんな儂でも相手にしてくれるあんたが嬉しくてのう」
「いいのよ。こっちは商売だから……」
まだ陽は高かった。栄三郎はヌードポスターが貼ってある壁に寄りかかり、「はあ」と深いため息をついた。恵美がブラウスを脱ぐ。ラジオからは昔の流行歌がやるせなく流れていた。
「儂は今年で六十七になるが、こんな歳になっても女の肌が恋しいものだ……」
「性欲に歳は関係ないわ。喉が渇けば水を飲みたくなる。お腹が空けばご飯を食べたくなる。それと一緒よ……」
「娘と同じくらいのあんたに欲望を抑えられない儂は、やっぱり好き者かね?」
「そうは思わないわ。以前は女には性欲がないなんて言われていたんだから。でもね、私はセックスが好きなの。じゃなかったらやってられないわ。この商売……」
「それもそうか……」
栄三郎が酒臭い息で恵美に抱きついてきた。そして、危なっかしい手つきで服を脱ぎ始めた。その腹は異常に膨れていた。放射線状に血管が浮き出ている。それはいかにも病的だった。
「栄三郎さん、どうしたの? そのお腹……」
「食い物は質素だしな。腹が出るような物は食ってないんだが……」
「病院に行って診てもらった方がいいわよ。そのお腹……」
「なーに、いつおっ死んだって構わんよ。誰も悲しみやせん。福祉の担当だって口減らしができて喜ぶだろうよ」
「私が悲しむわよ」
恵美は真面目な顔をして言った。だが、栄三郎の顔は晴れない。
「今日はあんたが上になってくれ」
逆光の部屋に二つのシルエットが重なった。ラジオはまだやるせない流行歌を口ずさんでいた。
恵美の住むアパートの近くには川が流れている。球磨川という川で普段はおとなしい川であるが、ひとたび台風でも来ると「暴れ川」となることで有名だった。であるから、球磨川の治水工事は県の重要施策だったのである。
恵美は球磨川沿いを散歩するのが好きだった。もう葉桜の時期とはなっているが、桜並木の楚々とした雰囲気が好きだった。こんな風景を見て歩くと、昇一との嫌な出来事も忘れられそうな気がした。
桜並木の道に一台のワゴン車が停まっていた。治水事務所の公用車だ。そこから二人の男が降りてくる。
「あれ?」
恵美は若い方の男に見覚えがあった。男も恵美を見てハッとする。
「高田さんじゃないか」
男は白い歯を剥き出しにして笑った。
「瀬谷君……だよね。高校の時、同級生だった」
「よく覚えていてくれたね」
その男は瀬谷隆と言った。高校の時から性格が明るく、ひょうきんでクラスの人気者だった覚えが恵美にはあった。
「公務員してるの?」
「うん、治水事務所に今は勤めているんだ」