生と性(改稿版)
恵美は昭雄の肩をポンと叩いて笑顔を作ってやった。
母親は居間にはいなかった。屋外で腰を屈めながら野菜を束にする作業をしていた。
「済みましたよ」
恵美が母親にそう声を掛けると、母親は「あれま、もう終わったのけ」と言って立ち上がった。
「あんな、どうしようもない息子だけんどよ。高田さんみたいな人がいると助かるべ」
母親はモンペのポケットから剥き出しの一万円札を取り出すと、恵美に渡した。それは皺くちゃになっており、泥が染み付いていた。
「昭雄さん、好きな人がいるみたいですね」
「好きも何も、わけわからんでやりたい放題やるもんだからよ。こっちは困ってるだ」
母親はいかにも面倒臭そうに吐き捨てる。
「でも昭雄さん、真剣みたいですよ」
「先日も相手の親から散々文句言われただよ。まあ、あいつが人並みの幸せを求めようってえのが間違ってるだ」
恵美は思う。昭雄が乳房に固執するのも、フェラチオに異常なまでの執着を示すのも、この母親からの愛情が足りなかったのだと。
恵美はこの母親から最初に昭雄の「性介助」の依頼を受けた時のことを思い出す。
「うちの昭雄がトチ狂っちまってねぇ。もともと狂ってるのに、盛りがついちまったんでさぁ」
母親はそう言って、昭雄の「性介助」を依頼してきたのだ。今の時代は養護学校もあり、知的障害があっても、社会の一員として認められている。だがもし、時代が違えば、昭雄は座敷牢にでも入れられていたかもしれない。そんなことを思う恵美であった。
(この親を何とか変えなければ、昭雄さんに未来はない)
恵美はいつか両親と昭雄への関わり方や今後のことについて話し合わねばならないと思っていた。まるで、我が子を見限り、切り捨てているように思えて仕方なかったのである。
「お母さん、今度、お父さんを交えてゆっくりお話しませんか?」
「あら、やだよー。改まって」
「昭雄さんの今後のことについてなんです」
「昭雄のことは養護学校に任せてあるだよ。工場への内定も決まってる。まあ、どれだけ働けっかわかんねえけんどな」
母親は腰を伸ばしながら、恵美を見据えた。
「実はゆっこちゃんのことなんです」
「あの娘とのことは、もう話が終わっているだ」
急に母親の口調が厳しくなった。だが、恵美も負けてはいない。
「もう少し、昭雄さんのこと真剣に考えては貰えませんか?」
恵美はなるべく冷静を装って言った。
「あんたにうちらの気持ちの何がわかるっていうだ。そりゃ、昭雄の障害は軽い。それだけに人並みになれるかと期待しとったんじゃ。だが、やっぱり知恵遅れは知恵遅れじゃ。どう頑張ったって、人並みにはなれねえだよ。そしてあの事件だ。ゆっことの一件がなけりゃ、何もあんたに頼んだりゃしねえ」
母親の瞳は悔しそうだった。唇を噛み締めている。恵美は悟った。昭雄の親は昭雄に期待しすぎたのだ。おそらく幼い頃は手塩にかけて育ててきたのだろう。だが、知的障害がネックとなり、他人との違いをあからさまに見せ付けられた時、期待は絶望に近い感情を生んだのだろうと。昭雄の親は我が子の障害の受容がまだできていなかったのだ。
「昭雄さんはお母さんが考えているより、ずっと素直でいい子ですよ。ゆっこちゃんとの一件が今後、一人歩きしないように願っています」
今はそう言うのが精一杯だった。恵美は母親に一礼して、バス道へと引き返した。母親はややもすると恨めしそうな視線で恵美を見送った。
空はついに泣き出し、大粒の雨を降らせていた。
恵美はその日の夜、家の近くの居酒屋に入った。昭雄の母親の態度が気に掛かり、飲まずにはいられなかったのである。その店は常連客で賑わう居酒屋で、食事メニューも充実していたため、一人暮らしをしている恵美にはありがたい店だった。それに一度常連になってしまえば、女性一人でも気軽に入れる店であった。
食欲はそんなになかった。それでも恵美はビールと一緒にカンパチの刺身と大根サラダ、厚揚げのチャンプルを注文した。マスター一人で切り盛りしているため、手のかかる料理はなかなか出てこない。その合間にもアルコールが進むという寸法だ。
恵美がビールを煽って、カンパチの刺身を頬ばった時だった。店の扉が開き、「ごめんなさいよ」という声がした。恵美はふと開いた扉の方を見た。すると車椅子の男性客が一人で入店してきたのだ。
「あら、新城さん!」
「あっ、恵美ちゃん!」
恵美は車椅子の男性を知っていた。この男、新城哲夫もまた恵美の顧客であった。
「新城さん、隣、空いているわよ」
恵美は哲夫のために隣の椅子をどけた。そこに車椅子が一台、入るスペースを作る。
「おっ、サンキュー」
哲夫が爽やかに笑った。そして車椅子を器用に漕ぎ、恵美の隣へと来る。
「今日は仕事の帰り?」
恵美が哲夫に尋ねた。
「ああ、この時間に帰れると、一杯やれるからいいね」
哲夫もビールを注文する。そしてメニューに目を移した。
「鳥の唐揚げとゲソの天ぷら」
「ちゃんと野菜も食べなきゃダメよ」
「じゃあ後、野菜炒めも追加ね。あーあ、恵美ちゃんが食事も作りに来てくれればなぁ」
「残念。私、料理はからっきしなの」
そこへ哲夫の生ビールが運ばれてきた。恵美と哲夫はジョッキをカチンと鳴らす。
新城哲夫は交通事故の脊椎損傷で下半身不随となった、中途障害者だった。今は障害者を多く雇用している電子部品メーカーで働いている。仕事にはそれなりの遣り甲斐と誇りを持っているようだった。
恵美は哲夫のところには、月に一、二度足を運んでいた。脊椎損傷で下半身不随となった場合、下半身の機能は麻痺する。つまりは勃起しないのだ。それでも哲夫には抑え難い性欲が湧いてくることがあるようだった。そんな時、決まって恵美に連絡を取るのだ。
恵美が「性介助」をする時、哲夫は恵美にボディタッチする。だが、昂ぶる性欲はそれだけでは昇華されない。だから恵美は指や口を使って、哲夫を愛撫し、欲求の解消の介助をするのである。
「何か、今日の恵美ちゃんは沈んでいるなぁ」
「わかる?」
「何か仕事で嫌なことでもあった?」
哲夫が恵美の顔を覗き込む。
「うーん、仕事ではないんだけどね。障害を持つ親の気持ちって思っていた以上に複雑なのね」
「そりゃ、そうだろうよ……」
哲夫がグイとビールを煽った。恵美の瞳は虚ろだ。
「俺もさ、交通事故で途中から障害者になっちまったけど、昔みたいに戻りたいって思うもんね。まあ、無理な話なんだけどさ。やっぱ、親としては五体満足でいて欲しいじゃない?」
「そりゃ、そうよね……。でも、どうしても健常者と一緒のレベルになれないとわかった時、親は落胆するわよね」
「まあ、親にもよるんじゃないかな。で、そいつは知的障害者か?」
「うん」
「なら尚更、親は気が気じゃないだろうな。知的障害者の社会参加は、俺みたいな身体障害者より遅れているからな。うちの会社にも知的障害者がいるんだけどさ。正直なところ、使い物にならなくてね。まあ、親は子より先に死ねないな」
少しアルコールが回った哲夫は饒舌だった。
「でも、親が安心して障害のある子どもを送り出せる世の中が必要なんじゃないの?」