生と性(改稿版)
「いや、それが難航中なんですよ。あの人もなかなか頑固だからね……。でも一度、高田さんには会ってもらいたいんです」
「でも、豊さんは『性介助』を拒んでいるんでしょう?」
「今はそうです。でも、女性から説得すれば考えも変わると思うんです。一緒に行って説得してくれませんか? これ以上、彼の悶々と苦しむ姿は見たくないんですよ」
その臼井の声からは必死さがビンビンと伝わってきた。恵美も思わず苦笑したほどである。恵美は思う。臼井は根っからの「福祉人間」なのだと。そんな臼井に恵美は好感を抱いていた。
「私みたいな商売女が言って説得できるかしら?」
「高田さんが『性介助』にポリシーを持っていることは私も知っています。是非、お願いしたいんです」
「はあー、あなたの熱意には負けたわ。取り敢えず一緒に行って説得してみましょう」
「ありがとうございます」
臼井の声が明るくなった。
恵美は思う。野菊園での臼井の立場は相当に悪いものであるはずだった。それでも障害者の「性」の問題に、真面目に、そして真摯に向き合っている。恵美にしてみれば、臼井はこっち側の人間ということになる。そんな臼井が入れ込むくらいだから、内田豊なる男の性の問題は、深刻なものなのだろう。
恵美は明日の十時に百日台駅のロータリーで臼井と待ち合わせることにした。
臼井は定刻どおりに百日台駅のロータリーにやってきた。そして、恵美を車に乗せるとアクセルを吹かした。
その内田豊なる男は隣の持立市に住んでいるという。車にして三十分くらいの距離だ。持立市には恵美の卒業した福祉系の大学があり、一人暮らしをしている者も多い。そんな一人暮らしをしている学生ボランティアを集め、豊は生活をしているのだという。親は少し離れたところに住んでいて、障害年金では足りない分を援助していた。親は資産家らしいのだが、どうしても「自立」したいという豊の願いで、一人暮らしをしているらしい。
臼井がアパートの敷地内に車を停めた。建て付けの古そうなアパートだ。
「障害者はこんなアパートくらいしか入居できないのが現実なんですよ。障害者の一人暮らしとなると、大抵の不動産屋は難色を示しますからね」
それは一人暮らしの身体障害者の家を訪ねている恵美にもわかっていることだった。川島昇一も建て付けの悪いアパートに住んでいた。
豊の部屋の玄関には「障害者地域生活センター」という看板が貼り付けてあった。そして、玄関の外には電動車椅子が鎮座している。
「こんちはー、臼井です。今日はお客さんを連れてきました」
臼井は豊と相当親しいのだろう、ノックもせずドアノブを捻った。
すると炬燵に潜り、座椅子に座っている一人の男がいた。内田豊だ。背中は湾曲し、やや前方につんのめっている。
「内田さん、始めまして。高田恵美です」
すると豊はジロリと臼井を睨んだ。
「あれほど呼ばないでくれと言ったじゃないか……」
「今の時間は学生もいないだろう。その時間に話し合った方がいいと思ってね」
豊は今度、恵美の方を睨んだ。
「あなたもあなただ。臼井を通じて『性介助』とやらは断ったはずだ。それとも何か、押し売りか?」
「そんなつもりで来たんじゃありません。ただ、私の『性介助』を誤解されては困るんです」
「ほう、誤解ね……。でも、身体を売っていることに変わりはないだろう。いわば非公式な風俗だよ、これは。俺はね、風俗などには頼りたくないんだ」
そこへ、臼井がお茶を淹れてきた。臼井も座る。
「豊さんも一人で悶々としている時があるじゃないですか?」
臼井が困ったような顔をして言った。
「そうだよ。確かにそういう時もあるよ。夢精もするしね。でも、だからと言って女の人と肌を合わせるのはわけが違う」
「内田さんってストイックなのね。でも、それで人生の半分は損しているんじゃなくて?」
恵美が豊の顔を覗き込む。豊はストローでお茶を啜った。そして、ゆっくりと喋りだしたのである。
「本当のことを言えば、俺だってセックスしてみたい。ここには女学生が食事を作りにきてくれるんだ。そんな彼女たちの後姿を見ていたら、『いい尻だな』とか『もし、この娘がセックスしてくれたらな』なんて思うことも正直あるよ。でも、そんなことをお願いしたら、俺の在宅生活は一気に破綻してしまう。だから俺は自分をいつも戒めているんだ。『障害者にも当たり前の暮らしを』と思ってやっているこのセンターの事業も、一気に信頼を失うことにもなり兼ねない。だから、俺はいつも自分を戒めているんだ」
そう語る豊の眼力は凄まじいまでの気力に満ちていた。それは恵美も少し後ろに仰け反ったほどだ。
「センター事業って何をやっているんですか?」
「同じように筋ジストロフィー患者の在宅生活を支援したり、ボランティアの調整をしたりするんだ。もし俺が『性介助』を受けたと知って、幻滅する女性ボランティアは多いだろう。俺は今まで築き上げてきた信頼関係を壊したくないんだ。ボランティアには一人も離れていって欲しくないんだ」
豊は力強く訴えながらも、目に涙を溜めていた。
「確かに夜間は泊まりの介助の学士さんが来るし、昼間は電話がよく鳴る。そういった意味では落ち着いてセックスできる時間がないな」
臼井が腕組みをして考え込んだ。
「でも、そんなこと、ちょっと考えればハードルは低くてよ」
「ほう……」
臼井が驚いたような顔をして言った。
「今日のように臼井さんが来られる日の日中にやればいいじゃない。臼井さんには外で待機していてもらって、終わったら臼井さんに連絡すれば済むはなしでしょ?」
恵美は何とか豊に「性介助」を受けてもらいたかった。己で己の幅を狭めているような気がしてならなかったのだ。それは単に新規顧客を開拓したいという動機では片付けられない問題だったのだ。
「私が『性介助』をしている人の中にはね、『性介助』を受けて自己実現を果たしている人も沢山いるのよ。内田さんの世界を広げるいいチャンスだと思うの。そんなに堅苦しく考えないで……。ところで内田さんの病気は何型?」
「俺はデュシェンヌ型だ。四十にもなるのは奇跡に近くてな。でも先は長くない。いつ、俺の心臓が止まるかわかったもんじゃないよ」
「だったら、今がチャンスじゃない。臼井さんに外に出ていてもらえば……。いい、私が求めているのは、ただセックスしたりフェラチオしたりすることじゃないのよ。お互いがお互いの存在意義を認め、しっかりと人間関係を築き上げた上での『性介助』なのよ。ソープランドやヘルスなんかと一緒にしないで」
恵美が迫るように身を乗り出した。
「くうーっ……」
豊の葛藤は頂点を極めようとしていた。その肩を臼井がポンと叩いた。
「決めちゃいなよ。お願いするって……」
「俺にとって、セックスは恋愛なんだ。きっとセックスをしたら、高田さんに惚れてしまう……。でも高田さんは他の客とも寝る。俺にはそれが耐えられないんだ」
さすがにその言葉に恵美も動揺した。
(確かに惚れられても困る。何とか割り切れないのかしら?)