生と性(改稿版)
「こいつ、女を見て興奮しやがった。さあ、今のうちに出て」
そう臼井に促されて、恵美は寮から出た。臼井は新山を引きずっていくと、居室に押し込み施錠した。
「済みません。若い女性を見ると興奮する奴もいるもんで……」
遅れてやってきた臼井が頭を掻きながら言った。
「あの人の『性介助』は必要ないの?」
「とんでもない。一度やったら、見境がなくなりますよ。新山さんはそういう人です」
「ふーん、難しいのね」
そんな会話をしながら歩いていると、大きな音を立てて寮の扉が開いた。そして中年の女性が駆けてくる。
「あれ、三田さん、今日は非番じゃ?」
「残っていた仕事を片付けにきたのよ。それより臼井君、新藤さんに何をしたの?」
「何をしたのって?」
「とぼけないでよ。新藤さん、『女とやった』って言いふらしているのよ」
三田が険しい顔で臼井に迫った。恵美は呆気に取られている。三田は険しい表情のまま恵美を睨み付けた。
「あんたね、新藤さんをたぶらかしたのは。困るのよね、施設の規律が乱れるじゃない!」
三田が吠えた。
「新藤さんは、もうこの先、長くはないし、一度くらい女性を体験させてもいいんじゃないでしょうか」
臼井も負けずに言い返した。だが、三田は動じない。
「その一度が問題なのよ。園の方針にそぐわないわ。ちゃんと起案は通したんでしょうね?」
「起案なんか書けるわけないじゃないですか。この前のヘルスだって却下されたのに……」
「今日は日直で部長が来ているから、一緒に来て頂戴」
程なくして恵美と臼井は部長の前に立っていた。横では三田が腕組みをしている。
「困るんだよねぇ。勝手にこんなことされちゃ。これは売春だよ」
部長は恵美と臼井を睨みつけながら言った。そして、部長の目は恵美へと向く。
「あんたもこんな商売してないで、まともな仕事に就いたらどうかね。介護の仕事は遣り甲斐があるぞ」
部長はいかにも商売女を毛嫌いするような視線で恵美を見る。
「この野菊園の介護の仕事って、ご飯をグチャグチャに混ぜたり、トイレの扉を外したりすることですか?」
恵美は部長を睨み付けた。
「それは必要があってやっているのよ」
代わって答えたのは三田だった。
「どういう必要があると言うんですか。面倒臭いからご飯を混ぜているだけでしょ。トイレも監視したりするための、職員側の都合で扉を外しているんでしょ。市立施設が聞いて呆れるわ」
「あなたに現場の苦労の何がわかるって言うのよ!」
三田が吠えた。どうやら三田はヒステリックな性格のようだ。
「あら、これでも在宅の障害者とは随分関わっているのよ。こんな箱物で管理されていない分、在宅の障害者を抱えている親御さんやご本人の方がどれだけ大変か……」
「このバイタ!」
追い詰められた三田は怒りを露にして、恵美に噛み付いてきた。
「そうキーキーとヒステリックに怒鳴り散らすのは、生理不順が原因ではなくて?」
売り言葉に買い言葉だった。恵美も負けてはいない。
「まあまあ二人とも……」
部長が二人のなじりあいを止めた。
「あんたも、今後はこの施設に出入りしないでくれ。でないと、売春で通告して婦人相談所に送っちまうぞ」
部長が苦虫を潰したような顔をして言った。婦人相談所とは売春防止法により県で設置された施設で、最近はドメスティック・バイオレンスなどの被害を受けた女性も多く入所している。
「なるほど、臭いものには蓋をするってわけね。だったらこの施設に蓋をしたらどうかしら。この悪臭、たまりませんわ」
「いいから、とっとと帰ってくれ」
「ご安心ください。もうここには来ませんよ。こんな人間家畜場にはね。それに私の仕事は売春ではなくて『性介助』ですから、お間違いなく」
そう言い捨てると、恵美は踵を返した。そのまま事務室を出て玄関に向かう。廊下に「障害者人権月間」のポスターが貼ってあった。そこには「障害者にも当たり前の生活の実現を」と、ノーマライゼーションの理念が書かれていた。恵美はそのポスターを引き剥がすと、ビリビリに破いて放った。恵美の後を臼井が追った。だが、恵美は振り向かなかった。
翌朝、恵美は新城哲夫からの電話で目が覚めた。昨夜は夜中に何度も目が覚めたので、身体がだるかった。
「野菊園に行ったんだって?」
「建物は立派だったけど、中身は家畜場よ。おまけにオバサン職員と部長に文句を言われたわ」
「そりゃ、大変だったね。まあ、話は臼井から聞いたよ」
「もう、あの施設には絶対に行かないわ」
「臼井はいい奴なんだがなぁ。施設が閉鎖的で、市立という肩書きがお堅いんだろうな」
電話の向こうで哲夫が困っている様子が窺い知れた。
「臼井が言っていたよ。『ありがとう』って」
「私も臼井さんは嫌いじゃないのよ。ただ、あの施設が嫌いなだけ。あんな施設が市立で存在しているかと思うとゾッとするの。民営化とかできないのかしら」
「臼井の話では民営化の話も持ち上がっているらしい。でもあれだけ大規模な施設はなかなか受けてくれる社会福祉法人がないらしいよ」
「ふーん……。で、新城さん、また私に『性介助』を頼みたいの?」
恵美はつまらなさそうに返した。
「いや、俺はこの前してもらったばかりだからさ。まだいいよ。野菊園に行ってくれたお礼を言いたかったんだ」
「わざわざ、ありがとう。私にとっては忘れたいことだけどね」
「そっか。まあ元気出しなよ」
「うん……。私には在宅のお客さんが沢山いるからね。もう気にしない」
「その意気、その意気。まあ、俺からも一言、お礼を言いたくてさ」
恵美はフッと笑うと、「ありがとう」と言って電話を切った。今日は仕事をしたくない気分であった。それでも「性介助」の予約は入っている。
「今日は鈴木さんに川崎さんか……」
恵美が手帳を開いて、今日の予定を確認した。
鈴木信吾は尚樹と同じ養護学校の卒業生で、やはり療育手帳A1を所持する最重度の知的障害者だった。
川崎徹は川島昇一と同じ小児脳性麻痺の男で、進退障害者手帳の2級を所持している。昇一からの紹介で恵美の顧客となったのだが、恵美と昇一のトラブルの後も、「性介助」の依頼をしてきた。徹は世間の一般常識が通用する男で、昇一のように無理に自分の要求を押し通そうとすることはなかった。昇一から恵美の噂を聞いているはずの徹であったが、「あいつの言うことは信用できない」と徹は言い、「性介助」の依頼をしてきたのである。恵美は障害者同士が必ずしも良好な関係を保っているわけではないことを知った。そして、徹には安心して「性介助」できると思ったものである。
丁度、恵美が家を出ようとした時、携帯電話が鳴った。発信元は横田栄三郎だった。
「もしもし、恵美さんか? 儂だ、横田だ」
その声は弾んでいた。おそらく何か良いことがあったのだろうと、恵美は推測する。
「栄三郎さん、どうしたの? 随分と嬉しそうじゃない……」
「それが娘の真由美から荷物が送られてきたんだ。衣類と米と一杯の苺とサクランボを……」
「えっ、娘さんって、あの福祉事務所からの扶養の依頼を断ったっていう……」