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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 4~5

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 晃太郎はゆっくりと扉を押し開けた。赤いベルベット生地にくるまれた重厚な扉のむこうから、息苦しいほど懐かしい香りが漏れ出してくる。

 薄暗い照明の中に浮かぶ赤茶色のソファ、無数の傷を持つ年季の入った柱。レジカウンターの裏手から漂う酒と食べ物のにおいが記憶にのしかかる。

 観客のざわめきの向こうから聞こえるピアノの音色に鳥肌が立った。
 記憶の中で止まったままの時間を、十八年分巻き進める必要があった。

「いらっしゃいませ」

 暗がりから現れたタキシード姿の初老の男性を見て、初音は息を飲んだ。

 ――お嬢さん。お父さまがお待ちかねですよ。

 微笑んだ彼のうしろから姿を見せたのは、黒の燕尾服を身にまとっている父――

「ご案内いたします。どうぞこちらへ」

 晃太郎に手を取られて我に返った。彼の肩のむこうに初老の男性の顔が見える。

「おや、もしやあなた……」

 少しかすれた声が心臓をひっかく。
 立ち去りたい衝動を抑え、力を振り絞って時計のぜんまいをぎりぎりとまいた。

「おひさしぶりです。望月浩彰の娘の、初音です」
「やはりそうでしたか。すっかり大きくなられて……どうりで私も年をとるはずです」

 男性の目じりに数本の太い皺がよる。彼はこの店のオーナーで、今も変わらずマネージャーやスタッフに混じって接客をしているようだった。皺の数が増えても相手を和ませる柔和な笑顔は変わっていない。彼の肩越しに当時の喧騒が聞こえてくるようだ。

「お席までご案内いたしますよ」

 微笑みを浮かべたまま、ステージ近くの席まで誘導した。腰を下ろすとグランドピアノを弾いているような錯覚に陥るほど、ピアニストの椅子に近い席だった。

 店内をくまなく見渡した。アンプやドラムセットといった機材は入れ替わっているものの、店に散りばめられた調度品やグランドピアノは昔のままだった。
 一年中曇っている窓ガラス、美しいバラが描かれた厚いカーテン、母が好きだった映画『カサブランカ』のポスター。

 演奏が始まるまで、晃太郎は黙ってジントニックを飲んでいた。

 グランドピアノの前には長身の女性が腰かけている。鍵盤を強く叩くたび、紫のカクテルドレスから出た白い肩の上で、ゆるく巻かれた黒髪が揺れる。

 ソロが終わると観客席から拍手が起こる。初音の耳に彼女の演奏はほとんど届いていなかった。聞こえてきたのは、父が好んで弾いていたナンバーばかりだ。
『サマータイム』『センチメンタル・ジャーニー』、母が好きだった『ナイト・アンド・デイ』、そして『ラウンド・ミッドナイト』。

 いつになれば、この音色を断ち切ることができるのだろう。

 アンコール演奏が終わり、ピアニストが拍手の中に姿を消してからも、ぼんやりとグランドピアノを眺めていた。晃太郎は何も言わずに煙草をふかしている。観客が全て席を立ち、オーナーや接客係がテーブルの上を片づけ始めてようやく口を開いた。

「どうした。あのピアノが弾きたいのか」
「あ……ううん、そうじゃなくて……」

 鼓膜の奥で、まだ父の演奏が聞こえていた。グランドピアノを眺めていると、忘れたと思っていた記憶が堰を切ったように溢れ出す。自分で生み出したと思っていた数々のピアノアレンジは父の影響を色濃く受けていたということに気づく。

 テーブルの上にコーヒーカップがふたつ置かれた。
 夜の闇よりも濃いコーヒーがゆったりと湯気を上げている。

「あの、もう注文は……」

 顔を上げるとオーナーの微笑みがあった。彼はゆっくりとした動作で角砂糖のつまったガラス瓶と銀色のミルクピッチャーを置いた。

「わたくしからでございます。初音様は今でもピアノを弾いておいでで?」

 柔和な笑みとコーヒーの香ばしい香りが緊張を解きほぐしていく。昔、こわばった初音にオレンジジュースを差し出してくれたときと同じように、目じりの皺を寄せながら返答を待ってくれていた。頭をさげて礼を言った。

「大学生の頃にジャズの勉強をし直したんですけど、なかなか父のようにはいきませんね」

 ふたつのカップに砂糖とミルクを入れながら苦笑すると、オーナーはグランドピアノに視線を移しながら言った。

「なにか一曲弾いてくださいませんか?」

 晃太郎が「ナイス提案、オーナー」とつぶやきながらコーヒーをすする。素人の自分がここで弾いてはいけないという意志とは無関係に、指はピアノに触れたがる。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。オーナーの目じりの皺は変わらない。
 握りこぶしの中に指をおさめてゆっくり立ち上がった。

「じゃあコーヒーのお礼に……」

 微笑みかけるとオーナーは静かにうなずいた。

 グランドピアノの椅子に腰をかける。試しに音を鳴らしてみると鍵盤もペダルも思っていたよりずっと重かった。けれどこの感触は、家に残された紅色のアップライトピアノによく似ている親しみのある重さだった。足のつま先からせりあがってくる鼓動を鎮めるために一度息を吸う。震えがおさまるのを待って鍵盤に指をそろえる。

 セロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』を弾きはじめる。一拍おいてからのEmフラット・メジャー・セブンス。ニューヨークの夜を彷徨い歩くような暗く不気味な歩調。
 酒に酔った父が孤独を抱えてふらつく様子が思い浮かぶ。父が残したライブ音源の音色をなぞりながら、少しだけ自分の色を加える。コーラスの最後の小節に登場するEフラットの明るい響きの中、父の優しい笑顔が見える。

 二コーラス目に入る直前、ブラシでスネアドラムをこする音が聞こえた。晃太郎がこちらの様子を伺いながら2ビートを叩いていた。先週のパンクロックバンドと比べるとスローモーションに見えるほど丁寧にひとつずつ音を鳴らす。
 絶妙な間合いで入るクラッシュシンバルやバスドラムの音色が背筋に快感を走らせる。

 三コーラス目からはベースも入ってきた。ステージの奥に立てかけられていたウッドベースを抱えているのはオーナーだった。視線を交わすと彼は口元に笑みを浮かべた。彼の弦をはじくタイミングと父のアレンジは寒気がするほど合致した。
 オーナーは記憶の中の父とセッションをしているのかもしれなかった。

 十二コーラスちょうどで演奏は終わった。
 深く息を吐き出すと、オーナーはベースを元の位置に立てかけて初音に握手を求めた。

「とても素晴らしいひと時でした」
「ピアノトリオだなんて、まるでハンク・ジョーンズになった気分ですね」
「ではわたくしはロン・カーター、彼はさしずめトニー・ウィリアムスですかね」
「彼にぴったりです」

 向かい合って内緒話をするように笑っていると、晃太郎はわざとらしくのぞくような格好で近づいてきた。オーナーは彼にも握手を求めた。藍色のリストバンドに視線を落した後、ベースを弾きこんだ頑丈そうな掌で晃太郎の手を包んだ。

「あなたもどこかのステージに出ておられるのですか?」
「いえ、ジャズは若かりし頃に数年やったきりで」
「今でも十分お若いですよ」

 そう言って片目をつむった。おどけた口調に愛嬌があり、思わず吹き出した。