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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 4~5

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 三人の笑い声がはじけた。十何年ものあいだ胸を覆っていた黒い靄が消えた気がした。

 晃太郎がレジで精算をすませたあと、オーナーに改めて礼を言った。

「あの……今日のことは母には……」

 彼はまた片目をつむってみせた。

「もちろんでございます。トニー・ウィリアムス似の彼とご来店されたことは内緒にしておきますよ」
「もうっこの人とはそんなんじゃないんです」
「そんな仲だよ。ねえオーナー」

 晃太郎が初音の肩を強く抱き寄せる。ふりほどこうとすると、オーナーは彫刻のように刻まれた目じりの皺を保ったまま、胸の前に右手を添えた。

「では、わたくしもロン・カーターとして仲間入りさせていただきましょうか。お母様のお許しがおりましたら、次はぜひプレイヤーとしてお越しください」

 深々と頭を下げた。言葉を失っていると、晃太郎の手の力が緩んだ。

「あの……また来ます」

 戸惑いながら必死に言葉を紡ぐと、彼は頭を上げた。顔中に彫られた無数の皺は変わらずそこにあった。BGMのない静かな店内で、またひとつキャンドルの灯が消えた。



「おまえが本番に出られない理由を、オーナーは知ってるんだな」

 最終電車の中で晃太郎が不意にそう言った。初音の頭の中では先ほどのピアノトリオが反芻していた。彼の言ったことを理解するのに少し時間がかかった。隣に座った彼は窓の外を見ていたが、彼の耳には何か違う曲が聞こえているようだった。
 車内に伝わる振動が体を揺さぶる。

「……父との付き合いが長いからね。息を引き取った時も、死んだのは自分が追いつめたせいかもしれないって、ずいぶんご自身を責めていたそうよ」
「病死じゃないのか?」
「ライブのあとにお酒を飲みすぎて、車にひかれたの。事故死ってことになってるけど、お父さん、その前からずっと死にたがってたらしいから」

 晃太郎は手を口元に持ってきて深く息を吐いた。

「まったくどいつもこいつも。自殺するやつは残される人間のことなんか、これっぽっちも考えちゃいないんだよ。俺の両親みたいにな。オーナーもおまえも引きずる必要なんかないんだ」

 低く強い口調だった。ほんの少し触れている肩から感情が流れ込んでくるようだ。

「おまえのピアノの腕はオーナーも認めてる。堂々と名前を出して、要のバックバンドに参加すればいいだろう」
「この手が」

 晃太郎の言葉を遮るように言った。前に座っているスーツ姿の中年男性と目があった。
 声の大きさに気付いて下をむいた。乗客はみな静かで、電車が線路の上を滑っていく音だけが響いている。指を強く手のひらの中に折りこんだ。

「……本番中に動かなくなること、気づいていたんでしょう?」
「きっかけはなんだ」
「……父の曲は禁じられているから」

 母がやせた腕をふり上げて叫ぶ――お父さんの曲は弾かないで。

 父が死んだとき、すでに離婚していたけれど、母は激しく自分を責めているようだった。父が死に向かっていると知りながら、何故止めることができなかったのかと――

 母は恐れている。一人娘が父の曲を反芻することで、その存在に近づこうとしていることを。死への道を一歩ずつ進んでいるのを止められないのではと――

 決してそうではないのに、母はわかってはくれない。

 要と演奏したあの時、湧き上がってくる衝動を抑えきれなかった。もうひとつの命でもある父の曲を誰かと分かち合い、大勢の人に聴いてほしかった。

 要の中には痛みも苦しみも、希望もあった。だからもっと分かり合える気がした――

 晃太郎の手が初音の手に重なった。意外にも、初音の苦痛を鏡写しにしたかのように眉をしかめていた。初音の指はまだ小刻みに揺れている。

 電車は徐々に速度を落として駅に停車した。
 下車しようとした初音の腕を、晃太郎は強くつかんだ。

「家まで送っていく」

 断わったものの、うしろから押されるかたちになり、二人は駅に降り立った。
 真昼間の熱気はもうなく、涼しい風が駅の構内を吹き抜けていった。

 虫の音が早まっていた鼓動を鎮めてゆく。改札口に向かって階段を下りていく人々を眺めていると、晃太郎がうしろから初音を抱きとめた。藍色のリストバンドが見える。

 晃太郎は、初音の髪の中に鼻をうずめた。

「俺と一緒にロスに行かないか」

 低くつぶやくような声が耳に届く。腕を解いてふりかえる。瞳には鈍い光が宿っている。

「現地のギタリストから、新しいバンドを立ち上げないかって誘われてるんだ。他のメンバーもほぼ確定しているが、ピアニストは決まっていない。俺がおまえを推薦する」
「ロスって……いつから?」

 背中にまだ彼の熱が残っているのに、急速にその存在が遠ざかっていくようだった。
 駅構内の照明を浴びてピアスが光の中に揺れている。

「要が所属してる事務所との契約が切れてからだ。レコーディングを終えたあと、うまくいけばツアーで主要都市をまわることになる。そのあとだから来年か再来年か……だが必ず行く。そのために俺は他のバンドとの契約は全て断わってる」
「あなたと一緒にロスに行って、ピアノを弾けっていうの?」

 晃太郎は初音の指を取った。同情を帯びた優しい瞳はもうなく、プレイヤーとして初音を試している厳しい表情だった。

 晃太郎と共にロスへ行くことは、今ある人生との決別を意味する。仕事を辞め、出会ったばかりの弟とも別れ、母をこの地に残し、ピアノに人生を捧げる――目の前に開けた新しい人生の道筋は、思考が停止するほど途方もない未来を讃えていた。

 けれどそれは、要との決別になるかもしれない――

 明りの消えた静かな住宅街を二人で歩く。晃太郎は影のようにうしろを歩いている。
 団地の敷地内に入ったところで別れを告げた。

 晃太郎の腕がまっすぐに伸びて初音の頬にふれる。彼のくちびるが重なってきた。

「おやすみ」

 口元に微笑みを浮かべたまま立ち去っていった。夜風が髪をなでていく。
 仮に晃太郎の提案を断ったとしても、メジャーデビューを目指す要は近々この土地を去るだろう。湊人も高校を卒業すればいずれは離れていく。母と二人で古ぼけた公団住宅に残り、いつ帰るかわからない人たちを待ちながら老いていくのだろうか。

 ただ朽ちていくだけなら、この指と晃太郎に賭けるのも悪くないと思った。