ファースト・ノート 4~5
買い物から戻ると、玄関に湊人のスニーカーが並んでいた。
居間には誰もおらず、二階からピアノの音色が聞こえている。
階段を登ろうとして、ふと足が止まった。
玄関から続く薄暗い廊下の奥に扉が浮かび上がっている。一階の北側にある徹治の研究室らしい。扉に顔を近づけると、かぎなれない薬品のにおいが鼻先を刺激した。
要でさえ勝手に入ることは許されていないと言っていた。
「コーヒーを淹れますけど、飲みますか?」
しばらく待ったが返事がない。寝ているのかもしれないと思い、二階にいる湊人を呼んだ。ジーンズをはいた湊人が、裸足をぺたぺた鳴らしながら階段を下りてくる。
「初音さん、掃除してくれたんだ。すっげー助かったよ、ありがと」
「おじさん、寝てるのかしら」
「要の親父さんなら、大荷物を抱えて出て行ったよ。初音さんによろしくって言ってた」
湊人は大あくびをしながら居間に続く扉を押した。
庭に干していた洗濯物を確認すると、徹治の衣類だけなくなっていた。夕日が白いシャツを緋色に染める。姿を消した彼の衣服のところだけ、陽射しが落ちて地面を焼いていた。
湊人はひとつずつ洗濯ばさみをはずして言った。
「オレ、ずっとこの家にいてもいいのかな」
「深町も勝手に出入りしてるくらいなんだから、気をつかわなくていいんじゃない?」
「あいつ、オレが買ってきたコーラを無断で飲んだりするんだ。代わりを買ってくるだけ要のほうがマシだよ」
枕カバーを引っぱりながら初音は笑いをこらえた。両親不在で育ってきた男三人が子供の様にコーラの取り合いをしているのだ。湊人のマグや雑誌の類、晃太郎が残していく煙草の残香が、要の空間を和らげている気がした。
「修さんがバンドに誘ってくれてるんだけど、オレ、コードもわからないのに参加していいのかな」
ベーシストの修介が、湊人をアマチュアバンドに誘っていることは、要から聞いている。
驚いたことに晃太郎が、空席だったキーボードに湊人を推薦したそうだ。
「大丈夫。コードなんてやってるうちにおぼえられるわ」
湊人の何か言いたげな表情に強い西日が降り注ぐ。父を思い出させる白く細い指が、ピンチハンガーにつられた布巾をはずしていく。
玄関から要の声が聞こえた。ただいまーと言うなり二階に上がり、ギターケースを抱えて降りてくる。
山のように積まれた洗濯物の上にタオルを置いて、初音は息をついた。
「おかえり。またすぐ出て行くの?」
「ライブの打ち合わせがあるんだ。飯、食ってくるから」
ミネラルウォーターを一口飲んでから、ガラステーブルに視線を落とした。吸殻がうず高く積まれている。
「親父は?」
「出て行ったわよ」
要はソファの上に散らかっている雑誌を乱雑にまとめ始めた。生物関連の学術書がほとんどだ。出したら出しっぱなし。父と同じ性格をしている要でも徹治が出したものはなんとなく気にさわるのだろうか。
初音が廊下に出ると、玄関先に晃太郎が立っていた。紫色のポロシャツに黒のコットンパンツをはいている。栗色の髪とシルバーのピアスが夕日を浴びて輝いていた。
「これ、忘れ物」
初音が黒いリストバンドを渡すと、無言で受け取って鼻先に近づけた。
「洗ったのか?」
「においが気になる?」
しばらく匂いを嗅いだあと、左腕につけていたグレーのリストバンドをはずした。
「これも洗っといてくれない? 明日、朝一の飛行機に乗って福岡に行くんだ。今夜もここに泊まる予定だから」
「あ……うん、わかった」
傷跡を隠すそぶりもない。戸惑いながら受け取ると、晃太郎は洗いたての黒いリストバンドを左手首につけて玄関を出た。
紫色のひとつ星がついたリストバンドを眺めていると、すぐ横を要があわただしくすり抜けていった。
「湊人も一緒に来いよ。修がおまえのピアノを聞きたがってたから」
「マジで? 行く行く!」
立ち去った晃太郎の姿を呆然と眺めていた湊人が、我に返ったように声を上げた。
湊人が身支度をしてBMWに乗り込んだのを見送ったあと、居間に積みあがった洗濯物を見てまた息をついた。手の中には晃太郎のリストバンドもある。初音が手配したチケットを握って明日の朝飛び立つのだ。いつもの能面のような顔つきでドラムを叩くのだろう。
頼まれたからには、夜明けまでには乾くようにしようと思った。
六日後、就業時間を終えて営業所の外に出たとき、ガードレールにもたれている晃太郎の姿を見つけた。うしろには薄闇の中で鈍く光る黒のBMWがある。
思わず目をそむけた。足元から頭の上に向かって逆流する血液が落ち着くのを待つ。
もう一度外を見る。首を傾げて口の端を上げたのがわかった。初音はガラスの自動ドアから手を出して素早く立て看板を引っ込めた。
営業所の電源を落としたあと、自動ドアを手でこじあけて同僚に挨拶をした。携帯電話を取り出し、メールチェックのふりをして彼らの姿が消えるのを待つ。
晃太郎もまた素知らぬふりをしていた。
生ぬるい風が髪をなびかせる。ほてった頬をなでる風が心地よく、自然と肩の力が抜けた。信号を待っている間に落ち着きのない脈動を抑えたかった。
横断歩道を渡り始めても、晃太郎はみじろぎひとつしない。
「旅の途中に何か問題でもございましたか?」
営業用の声でそう言うと、晃太郎は含み笑いをした。
「そっちは全く問題ない。今日はピアニストの大野初音に用がある」
強い口調に心臓が強く打たれる。晃太郎は右手をかざす。
白地にグリーンの印字がほどこされたチケットを差し出して言った。
「明日、俺がやってるバンドのライブがある。湊人も連れてくるといい。それからこっちは来週の木曜日、午後六時半に駅の二番出口で待ち合わせだ。きっと気に入る」
有無を言わさない口調でそう言い切ると初音にチケットを握らせた。
あっけにとられていると彼の顔が素早く近づいてきた。
「ピアニストの望月浩彰。おまえの親父だろう?」
晃太郎が耳元で囁いた。飛び出しそうになる心臓を手で押さえて彼を見た。 十センチも離れていないところで不敵な笑みを浮かべている。
「スイング・ジャーナルにも載るような有名人だ。修のバンド仲間が大ファンだそうだ」
ジーンズのうしろポケットから紙切れを広げた。二十年以上前の父の特集記事だ。
「湊人と若いころの望月浩彰が瓜二つだって騒ぐもんでね、もしやと思って調べてみたのさ。ここまで似てるとはなあ」
コピー用紙をひらひらとふってみせた。つるつるした真新しい紙に若いころの父の姿がある。青年になった湊人がそこに映っているのかと思うほど同じ眼差しをしている。
「……どういうつもりなの?」
ライブチケットを握りしめると、晃太郎は初音のこぶしをときほぐした。プレイヤーの名は有名な女性ピアニストと男性サックスプレイヤーだった。
「望月浩彰が出入りしてたジャズレストランだったのはただの偶然さ」
差し出されたチケットを受け取りながら、彼の用意した巧妙な迷路の中に誘われている心地がした。
作品名:ファースト・ノート 4~5 作家名:わたなべめぐみ