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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 4~5

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5.アナザー・フロウ



 初音が目を覚ますと窓の外は小雨だった。

 前日の夜から仕込んだ惣菜をタッパーにつめる。このところ初音がせっせと料理をこしらえてはどこかへ運んでいくのを、母は訝しげな眼で見つめていたが、社会人になった娘に対して特に追及はしてこなかった。たとえ黙っていても、好きな男のところへ運んでいると思ってくれればいい、と考えていた。

 要のためではなく湊人のためだ、とつぶやきながら唐揚げを押しこんだ。

 午前九時すぎに家を出た。傘をさし、ビニールバックを下げて高村家へむかう。

 湊人が期末試験に追われる間に、あの家は元の乱雑さを取り戻してしまったらしい。試験が終わったら、片づけを手伝う約束をしていた。

 あと四日ほどで学生たちは夏休みへ突入する。湊人は試験結果の良し悪しにかかわらず、友達と海に行くだの花火をするだのと浮かれている。
 トップシーズンのこの時期、旅行業界は暑さも忘れて仕事に忙殺されなくてはならない。
 ピンクアロハの支店長は愛想をふりまくばかりで、てんてこ舞いをするのはいつも社員たちだ。初音も正直、家で寝ていたいと思うほど疲弊していた。

 あのがらくた屋敷で困り果てている湊人のために、重い足を運ぶ。

 雨のせいか、住宅街には涼しい風が吹いていた。霧のように細かい雨粒がTシャツのそでから伸びる腕を濡らす。行きかう人の姿もなく、街全体がまだ眠りの中のようだった。

 玄関で靴を確認したところ、要と湊人のスニーカーが見当たらなかった。
三和土のすみに薄汚れたトレッキングシューズが横たわっている。

 不意にリビングから姿を見せたのは、要の父らしき人物だった。
 彼は初音を凝視すると、白髪交じりの少し薄くなった髪をかきながら言った。

「やあ。君が噂のピアニストかね」
「あの……勝手に入ってすみません。湊人がお世話になっています」
「それは君が作ったのかね」

 要の父、徹治がビニールバックを指さした。と同時に腹の虫が鳴り響いた。
あまりに遠慮のない音に、初音は耳をうたがった。

「えっと……湊人にと思ったんですけど……召し上がりますか?」
「ありがたい。腹が減って、外に出るべきか思案していたんだ」

 徹治はさっとビニールバックを取ると、リビングに入っていった。
 ダイニングテーブルにつくと、吸いかけの煙草を押しつぶして、いそいそとふたを開け始めた。立ったまま唐揚げをつまみ上げる。「うむ、うまい」とつぶやくと、初音に手招きをしてからようやく座った。

 あきれながらも、何ともおいしそうにほおばるそぶりは要にそっくりだなと思った。

 髪もひげも伸び放題で、どんぐり目の下に大きなくまをつくっている。よれよれのTシャツにグレーのスウェットパンツは、どうやら要のものらしい。
 目を見張るほど頬がこけていて、旅のつかれを思わせた。

 麦茶を沸かそうと思い、初音はキッチンに入った。

 湊人の苦労もむなしく、三畳のキッチンは元の様相を取り戻していた。シンクにあふれかえる食器類、食べかけで放置された菓子パン、半開きの食料庫、床に散らばる米粒。
 黒いポリ袋が床に横たわり、空き缶がはみだしている。

 突然帰ってきた徹治が、この状態に拍車をかけたのかもしれない。

 手始めに床から片付けようと、ごみ袋を片手にごみを拾い集めた。
 一通り料理に手をつけた徹治が、一服吸い始めた。

「要はどこに行ったか知らんか?」
「今日は四時までバイトのはずですけど。会ってないんですか?」
「ちらっと姿は見たが会話はしとらん」
「あの……湊人には会いましたか?」
「今朝ここで頭を下げてから出で行きおったよ。今時の若者にしてはきっちりしとった。精悍だがあやうい顔つきが旧友を思わせる」

 彼の声がひとり言のようにトーンダウンしていくので、後半はほとんど聞こえかった。

「すいません、声がよく聞こえなくて」
「いや、なんでもない」

 徹治はそっぽを向いて煙をふきだした。
 シンクの前に立って蛇口の栓をひねった。当たった水しぶきが頬を濡らす。
徹治は煙を吐き出すたびにむせていた。

「ちょっと……吸いすぎじゃないですか?」
「大丈夫、大丈夫」

 そう言いながらも咳が止まらない。初音は思わずキッチンを飛び出して、背中をさすった。こちらの胸まで痛くなるような激しい咳きこみかただ。

「娘も悪くないものだな。君のお父さんは幸せ者だ」
「私の父はずいぶん前に他界してるので……」

 何気なくそう言うと、徹治は目じりに深い皺を作って微笑んだ。

「では私があの世に逝ったとき、料理上手な娘に育ったことを父君に伝えよう」

 そう言ってから口を開けて笑ったので、初音もつられて笑った。

 キッチンを片付けている間に雨はやみ、リビングに日が差しこんできた。
洗面所にむかうと、脱衣所をふさぐほど大量の衣服が積み上げられていた。手前にあるのは徹治が旅に持参していたもので、奥は要と湊人のものらしい。浴室の換気もほとんどしていないのか、体臭と汗のにおいが狭い空間に充満していた。

「なんですか、これ!」

 叫び声をあげると、徹治が指に煙草をはさんだままひょいと顔を出した。

「すまんが、こっちも頼まれてくれんか」
「要とおじさんって否定しようがないくらいそっくりですね!」

 洗濯機に衣類を押しこみ始めると、「そう言われると立つ瀬がないよ」とつぶやきながら居間に戻っていった。

 家中のほこりを叩き落として掃除機をかけながら、洗濯機を五回もまわすはめになった。
 しぶる徹治もかりだして、草の生い茂る庭に次々と洗濯物を干していく。

「君は主婦姿が板についてるなあ」

 徹治はバスタオルを数枚干しただけで縁側に座ってしまった。
 どこからか灰皿を引っぱり出してきて、また煙草を吸う。

「母子家庭で育ったんで、自然に身についただけですよ」

 ふりかえって言うと、ガラス製の灰皿にゆっくりと灰を落としながら言った。

「要の嫁さんになるのはどうだい?」

 どう返せばいいのか咄嗟には思いつかず、シャツを干す手を止めてしまった。

「こんながらくた屋敷に嫁ぐのはイヤですよ」

 嫌味にならないように明るい声で言った。

「では、少しは掃除でもするかな」

 徹治は笑っている。ほんの少ししか吸っていない煙草を灰皿に押しつけてもみ消した。
 また一本取り出そうとして手を止める。煙草の箱を握って、静かに微笑んでいた。



 その後、徹治は自室にこもってしまい、それきり姿を見せなかった。

 二階には要と湊人の部屋、アップライトピアノがある五畳ほどの洋室がある。
 要の部屋には学習デスクがおかれたままで、その上に古いシーケンサーやシールドの類が山積みになっている。湊人に頼んで敷きかえたベッドシーツも、晃太郎が泊まっていった夜からそのままのようだった。

 床の上にリストバンドが落ちている。晃太郎の強気な笑みとともに、リストバンドから見え隠れしていた傷跡がよみがえる。すき間なく綿密に織り込まれるリズム、几帳面に書かれた楷書体の文字。

 リストバンドを持って一階に降りる。丁寧に洗ってから返そうと思った。