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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 4~5

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 彼女はあわてて手を離した。瞳の中の光が微細に揺れているのがわかった。 思わず視線をそらした。伸びきった前髪の内側に醜い顔を全部かくしてしまいたかった。

 アナウンスが構内に響き渡り、背後を特急列車が通過していった。
 冷たい風がふたりの間を吹き抜けていく。

「もう大丈夫そうですね。じゃあ、また」

 彼女はやわらかそうな頬に笑みを浮かべると、足早に立ち去って行った。
今まさに死のうとしていた自分のためにこしらえられた笑顔だと思うと、胸が締めつけられるようだった。



 要は晃太郎からビール缶を受け取った。あの日つかまれた彼女の手のひらのように、冷たさが胸にしみわたる。晃太郎はビールを喉に流しこんで言った。

「結局死にぞこなって未だにギターを弾いてるわけか」
「そういうこと」
「同じ穴の中のムジナってやつだな」

 晃太郎が乾杯のポーズをとったので、要もビール缶のプルトップを引き上げた。金色の液体を一気に喉に流しこむ。胃に落ちたアルコールが全身に駆け巡っていくのを感じた。
 倒れるように床に座ると、ギターのハードケースが目に留まった。

 ギターを理由に様々な面倒なことから逃げ続ける人生の先に一体何があるのだろうと考えると、途方もない虚無感が肩にのしかかってきた。

「で、このギターケースに何が入ってんの?」

 晃太郎の声に驚いて顔を上げる。彼はハードケースの留め具をはずそうとしていた。

「ちょ……ちょっと待った!」

 四つん這いになって追いすがるのをふり払い、晃太郎は一気にふたを開け放った。

「ふーん。気になってたのはコレ?」

 封筒からためらいなく書類を抜き出して要の眼前にかざした。突然動いたせいか酔いが回って視界がぐらついている。晃太郎の手と白い紙束が何重にもなって宙を舞っている。

「へー戸籍謄本ね。コンガの女と結婚でもする気になったのか?」

 晃太郎はギターケースの中にある星形のピアスをじろじろと見ている。

「あいつには本命の男が別にいるんだよ。返せよ、それ」

 手を伸ばしたが届かない。体を動かすたびに、「戸籍謄本」「ピアス」「結婚」という無関係の言葉たちがアルコール物質と一緒になって脳みその中をかき乱す。
 晃太郎は冊子状になった紙切れをめくり始めた。

「おまえのギターケースはいつも空きっぱなし。今日に限って閉まってるんだから、空けずにはいられないよねえ」

 ソファの上にどっかと腰を下ろし意地悪そうな笑みを浮べる。
 要はどうにかしてソファの座面に頭を乗せると声を絞りだした。

「母親の欄に……なんて書いてある」
「何って、おまえの母親の名前だろうが」
「名前……なんて書いてある……?」

 要は胸がずくりと痛むのを感じながら言った。
 晃太郎の表情からいたずらっぽい笑みが消える。

 クリーム色の座面と要の顔のすき間に戸籍謄本の冊子をさしこんできた。顔を上げると彼はよそをむいていた。

 鉛のように重い腕を上げて冊子を手に取った。表紙をめくる右手が細かく震えている。
 唾をのみこんで親の欄に目をやった。

 その途端、長い間体を覆っていた薄い膜のようなものが音を立てて破裂した気がした。

「何がわかったんだ」

 晃太郎は頭の後ろで手を組み、要を見ずに言った。

「俺が母親だと思ってた人は、生みの親ではなかったということさ」

 もう一度冊子に目をやった。自分が母だと思っていた女性の名前はどこにもなかった。
 母親の欄には「美穂」ではなく「早苗」と記載されている。これを見る限り、「早苗」は要の出生から一年後に死亡し、その後父が「美穂」と再婚したことはないようだ。

 自分の手を引いて父の研究室まで送り迎えをしてくれた女性は何者だったのか。
 記憶の根底を支えていた基盤が溶解していくようだった。
 晃太郎はテーブルの上に置いてあった煙草の箱を取りながら言った。

「親だっていっても結局どいつもこいつも自分勝手に生きるしかないのさ。おまえもピアスの女と結婚したくなったらよく考えることだな」
「だからあいつには男がいるって言ってるだろ」
「じゃあ最近入れこんでる初音が本命か?」

 晃太郎はゆっくりとした動作で火をつけて煙を噴き出した。強い視線が突き刺さる。
 楽曲の作成中に核心をつかれたときの感触に似ていたが、アルコールのせいで感覚が麻痺しているのか、あまり痛みを感じなかった。

「なんではっちゃんが出てくるんだよ」
「ふーん、じゃあ俺が初音と再婚してもいいわけだ」
「はいはい、どうぞお好きに……って」

 酔いの勢いに任せて投げやりに言ったあと、晃太郎の言葉が鼓膜の奥で反芻した。

「……再婚?」
「今どきバツイチドラマーなんて、ありきたりだねえ」

 ふざけた口調でニヤニヤと笑っている彼の姿を凝視した。思わぬところから転がり出た再婚という二文字が、混沌とした気持ちを吹き飛ばしていった。

「じつは子供がいるなんてオチじゃないだろうな」

 相手の調子に合わせて軽く言ったつもりだったが、晃太郎は平静を取り戻していた。

「まあ、その話はまた今度だ」

 緩慢な動きでガラスの器に灰を落とす。缶ビールを飲み干して立ち上がると、部屋から出て行った。足音が階段上へと続いていく。二階には要の自室があり、晃太郎は今夜そこにあるベッドで寝ることになっている。

 しばらく耳を澄ましていたが、そのうち階上からの物音は聞こえなくなった。
 照明を切るとソファの上に寝転がって息を吐いた。床には戸籍謄本が落ちている。朝からずっと存在感を放っていた冊子は、ただの紙切れにしかすぎなかった。
 投げられたリストバンドもショルダーバックの横に転がったままになっていた。

 薄暗い天井を見上げた。見慣れたシミや埃があちこちについている。
 二階に潜んでいる湊人と晃太郎の気配が、この家の重苦しい空気を中和してくれている。

 体になじんだソファのへこみが眠りへと誘う。庭にある大きな柿の木の葉がざわめいている。野良猫が仲間を求めて鳴いている。時計の針の音はどんどん遠ざかっていく。

 ベージュピンクのマフラーを巻いた彼女は、どこの誰だったのだろう。
 何百回と反芻してきた疑問を抱きながら、要は眠りに落ちていった。