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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 10~11(最終話)

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 眼鏡のレンズが照明を反射して表情は読み取れなかったが、口を一文字に結んだまま、高木に視線を注いでいた。
 同い年にして人生を音楽に賭けると決めた高木の姿を見て、何か感じるものはあるのだろうか、と思った。

 伶次が頭を指さしてテーマに戻る合図を出した。葉月がマイクを握りなおすと口元に笑みを浮かべてうなずいた。
 葉月と目配せをしたあと、真夜もアルトサックスをかまえた。

 声援が波のように襲いかかり、鳥肌が立つのを感じながら歌を歌った。
 真夜が同じようにメロディラインをかぶせてくると、頭の芯がしびれてピッチのずれなどどうでもよくなった。
 葉月の体は真夜の音に満たされていた。

 大歓声と共に曲が終わった。
 湧きあがる興奮が体の外に溢れ出しそうだった。
 真夜は深くおじぎをしながら、肩を揺らして呼吸を整えていた。

 観客席の中に、涙をぬぐっている夫婦がいる。
 年の頃からして、伶次の両親なのかもしれないと思った。

 真っ白の襟付きシャツを着た伶次が、袖で額の汗をぬぐう。
 この日、初めてMCマイクを持つと、またどこからか口笛が聞こえた。

「えー……残すところ、あと一曲となりました。ここまで聞いてくれた皆さん、ありがとうございます」

 テーブル席からブーイングの声が聞こえる。あの辺りには部員や伶次の知り合いが座っているはずだった。
 伶次は、まあまあ、と手をふって笑った。その手で首をおさえて咳をつく。
 会場がしんとなった。

「僕が十八のときに結成して以来、四年も続いてきたこのコンボですが、本日の演奏をもって解散することになりました。今まで応援して下さった皆さん、本当にありがとう」

 観客の温かい拍手に包まれて伶次が頭を下げた。

「僕とドラムの高木さんはまだしばらく日本でライブをやるんですが、真夜は今夜限りでアルトサックスをやめるそうです。最後に真夜のいかれたプレイを存分に堪能していってください! では、最後の曲は……」

 落ち着きかけた脈動が徐々に強さを増していく。
 伶次の声がフェードアウトしていく。

 葉月の視線に気づいたのか、真夜が背を丸めたまま顔をむけた。
 カウントが始まっているのに、葉月はマイクを下げたままだった。

「うそでしょ」
「本当だよ」

 嘘ばかりで本音を言わない真夜――なぜこんなときだけ、本当だと認めるのだろう。
 歓声が最後の曲『オール・オブ・ミー』へと導いていく。
 誰にも、止められない。



 全ての演目と後片づけを終え、解散する頃には午後十一時をまわっていた。
 演奏が終わってからも、常に誰かが伶次や高木をつかまえていて話しかけることすら出来なかった。
 観客席にひきずりこまれた真夜は、それきり戻ってこない。

 まとめた自分の荷物を見ながら息をついた。
 きっと今夜は仲間と演奏の余韻を味わうこともできないまま、あわただしく終わっていくのだろう。

 狭苦しい楽屋を出ようとすると、誰かが腕を引っぱった。

「おつかれさま」

 爽やかな笑顔でそう言ったのは伶次だった。
 全身にたちこめていた暗雲はすっかり消え去ったようだった。
 葉月は扉を閉めて言った。

「お兄さんの曲、構成が変わっちゃってびっくりしましたよ」
「直前になって、真夜が一コーラス丸ごと任せてくれないかって言い出したんだ。戻ってからの倍テン、ドラムソロ前の4バースは予想外だったけど、スリルあったろ?」

 伶次はいたずらっぽく笑った。真夜が自分から構成を変えるのは初めてのことだ。
 けれどもう、これで最後になる。

「ここまで付き合ってくれてありがとう」

 目の前に手が差しだされた。葉月が握り返すと、伶次は肩を抱きよせた。
 荒れた指先が首筋にふれる。反対の手が背中を軽く叩く。

 葉月の胸に熱いものがこみ上げてくる。
 プレイヤーとしての抱擁を交わしたあと、伶次は体を離した。
 葉月は腕からブレスレットをはずしてさし出した。
 伶次はため息をついて言う。

「いいよ。あげるつもりで渡したんだし」
「これは、もらえません」

 葉月は微笑みかけた。伶次は無言で受け取ると、自分の腕につけなおした。
 楽屋に入ってきた高木が伶次の髪の毛をくしゃくしゃにしていった。
 彼らは本当の兄弟のようにくすぐったそうに笑っていた。



 重厚な扉を押し開けてひとりで店の外に出た。
 街はすっかり闇に包まれていた。

 長い時間、熱気の中にいたせいか、肌にしみるような冷気が気持ちよかった。
 頬に手を当てる。体にこもった熱はなかなか引きそうにない。

 藍色の空に米粒のように小さい星が見える。
 都会の星らしい、弱々しい光を放っている。

 店の前の花壇に座って夜空を見上げていると、真夜がうしろから植込みを乗り越えてきた。
 頬がずいぶん上気している。

「お酒、だいぶ飲んだみたいね」
「飲んでませんよ」
「じゃあ手に持ってるのは何よ」
「幸福になれる神の水だよ」

 真夜の手の中にある瓶には「ソルティー・ドック」のラベルが貼られていた。
 酒に強くもないのに、本番後、同じ大学の仲間やプレイヤーたちに浴びるほど酒を飲まされているのを葉月は見ていた。
 その後、ひっくりかえってしまって隅の席で彼女に介抱されていたのも知っている。
 アルトサックスのように金色の光を反射している瓶を見ながら葉月は言った。

「本当にやめるの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「今やりたいことをやろうと思って」
「何をやりたいの?」
「写真とか」
「本気で言ってるの?」

 たしかに以前、『パーディド』にはられた写真を見ながら「写真っていいよね」とつぶやいていたことがある。
 物事の核心に触れないように、何かごまかしているのだろうと感じた。
 真夜は瓶のふたを開けたり閉めたりしている。

「冗談だよ。サックスは好きでやってきたけど、悔しいって気持ちだけじゃもう前に進めないところまで来ちゃったんだ。もっと好きじゃなきゃだめなんだ。伶次さんや高木さんみたいにね。僕には何か足りないんだ。だからこの辺でやめて、新しいことに挑戦してみようかと」

 頭を横にふったり揺らしたりと、いつもの挙動不審な動きをしていたが、気持ちに迷いはないことは伝わってきた。
 澄んだ真夜の瞳を見ていると、ここで自分が説得しても何の効力もないと、痛いほどよくわかった。

「残念だな。真夜とはまた一緒にやれると思ってたから」

 真夜は葉月を一瞥して、どこかに視線をそらした。
 返事がかえってこないことはわかっている。

 目の前の大通りを何台もの車が通り過ぎてゆく。
 足早に横切っていく仕事帰りのサラリーマンが地下道の入り口に吸い込まれていく。
 都会のはかなげな星に混ざって、ビル群に点灯する赤い光が存在感を放っている。
 変わらない日常の光景――けれど知らぬ間に常に何かが終わりにむかって歩みを進めている。
 葉月は終わりを目の前にして立ちすくんでいる。
 足元が震えて動けない。

「ねえ、葉月さん」
「なあに」
「一瞬が永遠に感じることってある?」

 真夜の横顔が見える。
 思い出されるのはあの青い舞台だ。