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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 10~11(最終話)

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 必ず戻ってくるよと真夜をその場に残して、二人は静かに立ち去った。
 


 高木が響かせるバスドラムの音と共に、会場内が静まり返る。
 となりに立つ真夜がアルトサックスをかまえる。
 ステージ上に張りつめる緊張感が足元からせり上がってくる。

 マイクを持つ手が震え、黒いブレスレットの上から押さえこんだ。

 一曲目から、葉月ひとりきりの『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』が始まった。

 コーラス最後の小節から伶次のランニングベースがとびこみ、高木がブラシを走らせる。
 テンポは元通りの320bpmでテーマが流れていく。

 ――イッツ・ザ・ワロング・タイム、イッツ・ザ・ワロング・プレイス……

 この歌詞を口ずさむたび、夏合宿の夜に出会ったことを思い出す。
 あの時間、あの場所でスタジオをのぞいたりしなければ、真夜と共に演奏するチャンスは巡ってこなかったかもしれない。
 胸がつぶれそうになるほど泣いて苦しむこともなかったかもしれない。

 過去の出来事は全て今につながって、こうしてとなりに立っている。
 ステージの下から真夜の彼女が見上げていることも知っている。

 ――それでも私はかまわない。

 真夜と感情を分かち合えるのは今この時しかないのだから。

 葉月の声がブルー・ノートを浮遊する。
 現実感のない振動が体に押しよせる。意外なほど心は落ち着いている。
 高木が叩くドラムのひとつひとつ、伶次の指が弦にふれる音まで聞こえる。

 となりで真夜が体を揺らしてリズムを取っている。

 ピッチの悪さは完全には治らなかったが、ソロに突入すると、迷いのない音色を響かせた。
 たしかに薬を断ち切ったようだった。
 アルトサックスの胸をくすぐるような音が高速スイングと共に気持ちよく流れていく。

柱に近いテーブル席に父と母、弟の姿を見つけた。
 先ほどまで退屈そうにストローをいじっていた弟が、食い入るように演奏を見つめている。
 兄の姿はないようだった。

 それでもかまわない。自分が信じた道をやり抜くほかないのだ。

 演奏は、葉月がソロを吹いたことのあるカウント・ベイシー楽団の『シャイニー・ストッキングス』、真夜が一番好きな『メイデン・ヴォヤージュ』と続き、伶次が絶対に譲らなかった『ストレート・ノー・チェイサー』へ移っていった。

 たった四ヶ月ほどの間に、真夜は見違えるほど安定感を増した。
 共にテーマを吹くことで、聞いただけではわからなかった真夜の癖にたくさん気づけた。

 真似できないくらい極端な強弱やタンギングのタイミング、うしろすぎるくらいのスイング、大げさで背筋が震えるようなベンド。
 決してテンポには遅れず、小気味よく刻んでいるドラムの4ビートへ乗っていく。
 まるで夜空を横切る巨大なほうき星のように、真夜の音色はどこまでもかけ抜けていく。

 五曲目には祥太郎のオリジナル曲を用意していた。
 練習期間は十日ほどしかなかったが、歌とソロを合わせて、六コーラス分演奏する予定だった。

 イントロが始まると、どこからか指笛が聞こえた。
 歓声が上がった方を見ると、吉川が手を上げていた。
 他にも微笑んだり拍手したりしている者が観客席のあちこちにいて、多くの人物が祥太郎を偲んでいることがわかった。

 曲の中盤を越えたあたりから真夜の様子が変わった。
 視線は店内奥のカウンターバーよりはるか先にむけられ、譜面を見なくなった。

 伶次のランニングベースと高木のリズムにはめ込む演奏が少しずつ崩れ始める。
 テンポをうしろに引きずる三連符、お得意のレイドバックが小節の頭にかぶさっていく。
 真夜はリズム隊に挑戦状をたたきつけるようにうしろをむいて目配せをした。
 高木は伶次に目で合図を送り、激しく演奏をあおり――
 
 二人同時に手をとめた。
 真夜の高音だけが四コーラス目に突入した。

 振動し続けるクラッシュシンバルの余韻が、アルトサックスの音と共に響いている。

 突然訪れた静寂に血の気が引いた。まだ曲の途中のはずだった。
 真夜のソロはもう一コーラス続き、ドラムソロと、最後には歌もある。

 真夜は次のフレーズを忘れてしまったのだろうか。
 鼓動が勢いを増す。全身に血がかけめぐる。
 真夜は楽器をかまえたまま静止している。

 練習中の悪夢がよみがえる――高速パッセージでサイドキィのFだけがかけ抜け、真夜はスタジオを飛び出していった。

 汗でにじんだ手のひらを握ると、真夜が葉月を見た。
 目が笑っている。光を凝縮した汗がこめかみを伝っている。

 真夜はアルトサックスをふりおろした。低音のFが会場を振動させる。

 静まりかえった空気を破り、耳慣れないフレーズが始まる。
 とらえようのなかったリズムは音と共にまとまりを見せていく。

 観客のまばらな手拍子が真夜の演奏と共に統一されていく。

 アドリブだった。
 ドラムもベースもない、完全に真夜ひとりきりのフリーソロだった。

 観客もプレイヤーもスタッフもみな巻きこんで新たな音楽を生み出してゆく。
 ハンドクラップが刻むリズムに乗り、真夜は自在にアルトサックスを操る。

 何者にも支配されない、真夜だけのメロディがそこにはあった。

 コーラス終盤にむかってフレーズが加速していく。
 苦手だというくせに、信じられないほど正確で早い音符の羅列を紡いでいく。
 低音を混ぜて逸る気持ちをじらしながら、上へ上へと昇っていく。
 風のように揺らめく音程――真夜の音色の先に、数えきれないほどの星が輝く夜の天盤が見える。

 高木のフィル・インにあわせて、伶次が弦の上で指をスライドさせる。

 見事に元の演奏に戻る。六コーラス目から、テンポは二倍の速さになった。
 巻き起こる歓声に答えるように、アルトサックスの激しいフラジオが響き渡る。
 葉月は我を忘れて、観客と一緒になって声を上げていた。

 真夜のソロは止まらない。
 予定していたコーラス数を大幅に超えても、誰一人やめようとする気配はない。

 真夜は左手でサイドキィを押さえながら、右手の指を四本立てた。
 四小節ずつ交代で演奏する4バースの合図だ。これも予定になかった。

 葉月は息を飲んでテナーサックスをかまえる。
 波に乗った真夜のソロから始まり、高木のドラムプレイ、それから葉月のたどたどしいアドリブに続く。それからまた高木のドラム。

 一コーラス分続けたあと、高木のフリーソロに突入した。
 先ほどまで隣で静かに笑っていた人とは思えないほど、圧倒的な演奏が鳴り響く。
 きっちりとハイハットのペダルを踏みながら、ハイタムやミッドタム、何枚ものシンバルを流れるように叩いていく。
 こめかみから汗が流れ落ち、つたっていった首元で黒皮のネックレスが見えかくれしている。
 頭の位置をほとんど変えずに腕だけをふり上げ、ドラムセットと一体になって激しいリズムを生み出していく。

 高木が巻き起こす竜巻のような上昇気流が、観客席の熱を上げていくのがわかる。

 突き刺さるような視線を感じ、ふと観客席の最後列を見ると、そこには兄の姿があった。